2006年08月14日
「明朝体・考」BLOG開設にあたって
明朝体理解は十分とは言えない
これから日本語の基軸書体である「明朝体」について考えていくことにしたい。理由は簡単。もっとも見慣れているはずの文字であるにもかかわらず十分な理解が得られていないと思われるからである。
しかし理解が得られていないとはどういうことなのか。
言語というものは発信者と受信者の間に正しいコミュニケーションを成立させるためのツールである。ところがコトバもそうであるように,文字を用いた場合においても必ずしも双方の理解が一致しない。それはとくに漢字という表意・表語文字において顕著である。
「音を表す」という機能しかもたない表音文字は,そういう意味ではかなり正確に意味内容を伝えられるともいえるが,一方の漢字は表情が複雑すぎるのである。そのことを意識しておかなければ正確なコミュニケーションを図ることはできない。
それでは「漢字の表情」とは何か。これを深追いすれば,「書体とは?」,「明朝体とは?」という疑問に対しても正面からぶつかっていかねばならない。こういう観点から漢字の構造を多角的に考えていきたい。それが,このBLOGの目的である。
折りしも『常用漢字表』の見直しが進められていると聞く。平成12年に『表外漢字字体表』が答申されたが,漢字の字形論的立場からは『常用漢字表』との整合が取れているとは言えない。さらに『表外漢字字体表』に示された字体は「印刷標準字体」としての位置づけをも持つこととされたが,ここでいう「印刷」とはどこまでを指すのかといった具体論は欠落したままである。いまの時代,おそらくは「印刷」の範囲も変わっていると考えなければなるまい。いまは画面上で本を読む時代である。パスポート受領の際の戸籍情報確認も画面で行う。もはや「形になった」文字を考えるにあたって「紙に刷られたもの」だけを対象にできる世の中ではなくなっているのである。
「字形デザインから外字増殖の問題を探る」続編として
こうした「時代の変化」を踏まえた上で漢字の字形を考えていくことが,これからは非常に重要になっていくのではないであろうか。この点を曖昧にしておくかぎり,外字増殖の傾向はいつまでも収まらないと思われる。
たまたま先般,国際大学GLOCOMのIECP研究会で講演を行った。テーマ(タイトル)は,「字形デザインから外字増殖の問題を探る」であった(ちなみにサブタイトルを「情報化時代の文字インフラに望むものとは」とした)。この講演資料をつくりながら,あらためて「明朝体とは何か」をじっくり考えてみたのであるが,深く考えれば考えるほど,自分として「わかっていないこと」の多さを痛感させられた。「四庫全書」の刊行に多大の功績があった清の鮑延博は,『礼記』にある「学然後知不足」(学んで然る後に足らざるを知る)から自らの書斎名を「知不足斎」と称したというが,まさにこの心境であった。そこで,ここで述べたことを柱にしながら自らの見解を示しつつ,さらに深く追求していくためにあえてBLOGの形で公開し,諸賢のお知恵をも拝借しながら明朝体を追求していくこととしたものである。
蛇足
なおBLOG形式ではあるが不定期とさせていただく。また,明朝体を論ずる以上,本文だけでも明朝体を用いるべきであるとも思いつつ,画面上の可読性を優先してゴシック系書体を指定した。こういう現実もまた明朝体の課題のひとつといえるかもしれない。
このBLOGの表示結果については,WindowsではFirefox 1.5,IE 6.0,IE 7.0β版で,MACではSafari 1.2で,それぞれ検証している。
(長村 玄)