2008年02月08日
PAGE展ジョイントイベントで講演
2月6日から8日まで,日本印刷技術協会主催の展示会,PAGE2008が例年通り東京池袋のサンシャインシティコンベンションセンターTOKYOで開催された。
この展示会併催の各種コンフェランスの一環としてジョイントイベントが併催されたが,この中でインデックスフォント研究会主催の「文字情報交換のための共有基盤」という講演会が本日(8日)の午後にあり,そこで「漢字字形に関する今日的課題」(副題:字体差/デザイン差の二元論を検証する)と題して講演した。内容としては,このBLOGで主張していることのうち,とくに人名表記の課題に焦点を当てながら,このBLOGの結論として考えていることのサマリーに近い論調を交えてお話をさせていただいた。
その後のパネルディスカッションでも各人各様の主張がなされ,落としどころの難しさをあらためて痛感した。この点については折を見て紹介していきたいと思う。
なお,この講演会のプログラムは今昔文字鏡のホームページに掲載されている。
2007年11月01日
異体字生成の法則はあるか
閑話休題。
世の中には面白い法則があるものである。10月31日付け日本経済新聞夕刊1面コラム「明日への話題」では,脳研究者の池谷裕二氏が担当して書かれているが,その中で言語学者のペイゲル博士の最近の研究成果を紹介している。
それによると,ペイゲル博士は100以上の印欧語の単語を丹念に調べた結果,「使用頻度の低い単語ほど変化が速く,その半減期は使用率の平方根に比例する」ことを突き止めたという。
これは表音文字圏の単語の発音に関するものだが,それでは漢字の字形変化はどうだろう。ペイゲル博士の研究対象は「半減期」という表現に示されるように時系列的に変化していく語であるが,漢字の異体字というものは時代を超えて並存するものもかなり多いので同じモデルでは扱えないことは自明である。
しかし漢字の異体字の傾向について,統計手法を用いたマクロ分析をしてみるのも意義があるのではないか。たとえば異体字が多い漢字と少ない漢字を使用頻度別に比較したら,何か相関関係が得られるかどうかという類のことである。この種の研究はすでになされているのかもしれないが,寡聞にして知らない。ぜひ知見をお持ちの方に教えていただきたいと思う。
2007年09月11日
ケータイが辞書代わり?
少し日にちがたってしまったが,今月8日の日本経済新聞朝刊に「漢字調べ、若者は携帯で」という記事が載った。

たしかに最近のケータイの文書作成支援機能は非常に便利になってきて,最初の二,三文字を入力すれば多くの候補文字が次々に現れるから,「辞書代わりになる」というのも頷ける。しかしケータイの画面では文字によっては一点一画までは正確に表示されない。いい加減さがますます助長されるのではないかと心配になる(写真は同記事より転載)。
しかしそれよりも,数多くの漢和辞典を,あたかも自分の身体の一部のように使っている身にとっては,そもそもケータイで漢字を調べるなどということ自体,とても考えられなかったことだ。ケータイさえあれば写真も撮れるし音楽も聴ける。テレビまで見られるものも多くなった。そろそろ電子辞書機能としても本格的なものが搭載されるかもしれない。しかしそれで本当によいのだろうか。
この日経の記事の中で,日本漢字教育振興協会の土屋理事長はのつぎのように分析している。
学校現場で辞書を日常的に使わせる習慣が薄れ,漢字の成り立ちや面白さを伝えられる教員が少なくなっている。これが若者の辞書離れを招き,携帯電話に走らせている要因のひとつではないか。私たち文字に関わるものは,漢字は面白いということをわかってもらえる教育の重要性をつねに念頭に置いておくべきだろう。
2007年06月15日
文字とロゴの狭間
1.ぎょさい
先日,久しぶりに飛騨高山から白川郷の方面を旅行した。高山市中心部からやや南,苔川の近くに「まつりの森」があるのだが,その道沿いに「鰶」という看板が目に付いた(下左図)。もともと「魚偏に祭」と書く文字はあって(上右図),音はセイ,サイ,訓では「このしろ」と読むのであるが,ここでは「ぎょさい」と読ませている。宴会中心の和風レストランで,「魚祭」という二文字が本来の店名らしい。しかし図の字形はどうみても「魚偏に祭」と一文字に読める。要するに一種のロゴとして制作したものであろう。車の中からちらっと見ただけだったが,漢字の世界では,こうしていつの間にか新しい読みが誕生してきたのだろうと変な感心をした。
2.漁港
日本経済新聞の連載「世帯組曲」6月9日付で,あるロックバンドが紹介されていた。名前は「漁港」(ぎょこう)なのだが次図の記事の一部に示されるように「港」が左右反転している。
記事の中に「文字」として出てくるので,一瞬,こういう文字があったかと思ってしまうのだが,たぶんこんな文字は存在しない。 そこでインターネット版の「日経プラス」をみると,この本文では,
バンド名は「漁港(ぎょこう)」で、正式には「港」の字を左右反転させて表記します。2文字の「さんずい」が両側に開くような形になり「カニみたいに見える」(森田さん)というのが理由だそうです。と説明している。つまり,これは明らかにロゴなのである。しかしこうして新聞に「文字として(?)」載ってしまうと,それがいつの間にか一人歩きすることになりはしないかと心配になる。それだけ,とんでもない外字を見続けているからかもしれない。 ちなみに,実際には次図のようになるのであろう。たしかに,想像を逞しくすればカニをイメージできないことはない。
【お詫び】当方の手違いにより,1週間ほどアクセス不能の状態が続いてしまいました。たいへん失礼しました。
2007年04月20日
『名家による尺牘と臨書作品』展を見る
今日は根岸の書道博物館で4月22日まで開催されている『名家による尺牘と臨書作品』展を見に行った。例の一階から二階の吹き抜け部には,顔真卿書と伝えられる「裴将軍詩」を中村不折が臨書した大作が掲げられていたが,さすがにうまい。よくもこのような超大作をバランスよく書けるものである。人並みはずれた造形力を持っていたことがよくわかる。
しかし顔真卿「裴将軍詩」そのものの構成力もすばらしい。何よりも,楷行草が文字ごとに混在していながら全体として見たときの違和感はまったくないのである。書体の統一感とはいったい何かについて,あらためて考えさせられた。
もっとも漢字仮名交じりの明朝体というのは,実は楷書と草書の混在とも言え,書体における「統一感」の定義も簡単ではないということである。
2007年03月07日
二玄社から『大書源』刊行

殷の甲骨・金文から清末の斉白石まで、あらゆる時代の様々な書体を収集し、21万を超える史上最多の字例を収載しました。二玄社の半世紀に亘る出版活動で蓄えた膨大な資料を基礎に、長年の知識と経験を傾注して作り上げた、書体字典の決定版です。という解説がすべてを物語っている。 B5変型,総ページ数3056ページという「ボリウム」も相当なものである。実際に重量を測ってみると7.4キロもあった。
いままで漢字の字形を辿ってみるのには,二玄社やマール社,中央公論社などの名品集,書道全集などをひとつひとつ紐解き,文字を探し出してはスキャナでとってそれを並べて比較評価するなどという,きわめて悠長というべきか,根気のいるというべきか,そんな作業を黙々と続けていたのである。それが,この『大書源』1冊でほぼ足りてしまうことになった。仕事の効率化を考えれば,これ以上の「ツール」はない。しかもDVD付である。このBLOGを書き進めるにあたっても大きな力になってくれるものと期待している。
2007年03月03日
フォントインフラに関する二つの話題
インデックスフォント研究会に参加
一昨日の3月1日,第15回インデックスフォント研究会が開催され,オブザーバとして参加した。この研究会の存在と活動の概要は知っていたが,実際に参加したのは初めてである。
これは簡単に言えば,外字問題を解決するための仕組みとして著者には「今昔文字鏡」を利用してもらうとともに外字(規格外文字)は文字鏡番号を付けてもらうこととし,受け側(処理側)ではインデックスフォントを用いることによって外字を含む原稿を正しく交換できるようにしようとするものである。異種システム間では,インデックスフォント番号を用いることで外字問題を解決できるという。
ただ,インデックスフォント番号がユニコードのPUAを使用することや,内字と外字が別書体で表示されることに対して利用者の納得が得られるのかどうかなどの懸念も考えられなくはない。しかし外字がこれほどまでに増殖してくれば,早晩,文字コードでのテキスト伝達は破綻する可能性もある。「無駄な外字を増やすな」という指摘はよく聞かれるが,多くは「無駄な外字とは?」というしっかりした定義がなされないままでの主張であることが多い。「字体差でなければデザイン差」とする国語行政の解釈自体,多くの矛盾を抱えているのだが,「デザイン差とは何か」にさえまともに答えようとしていない状況の中で,単に「文字を増やしてはならない」と言っても説得力はないのである。
今後の多角的かつ精緻な検証が必要ではあるものの,解決策のひとつとして傾聴に価するものと言えそうである。
Font Museum構想を発表
次の日すなわち昨日の2日,京都高度技術研究所(アステム)において画像電子学会の第5回電子ミュージアム研究会が開かれ,そこで『Font Museumの意義とその構想』と題する発表を行った。これは情報規格調査会 SC34/WG2小委員会の中で提案し検討している構想で,あまり具体的になっているものではないが,途中報告として行ったものである。
文書というのは,単にコード化されたテキストデータだけですべてが言い尽くされているわけでは決してない。どんな書体を選ぶかで印象は大きく変わる。そもそも,文意に合った書体,もっと積極的に言えば文意をさらに補強できる書体が選ばれる。組版体裁と書体の雰囲気によってその文書の印象は非常に変わってくるのである。したがって文書の再現には使用された書体(グリフ)イメージが参照できることが望ましい。しかし現実は厳しい現状がある。多くの活字書体がすでに失われ,写植書体も同様の運命にあるだけでなく,さらに発売されて30年に満たない専用ワープロ搭載フォントでさえ,すでに市場では眼にすることができなくなりつつある。
Font Museumとは,オープンなフォーマットのフォント以外の書体をイメージで,メトリクスデータをテキストで保存しようというものである。文書そのものを保存するのが最良であることは疑い得ないが,スペースファクタを考えれば電子的保存に依存せざるを得ない。PDF/Aは版面そのものの保存ができるという意味で目的に適っているのだが,現在はまだエンベッドできないフォントも市場に多い。その場合にはPDF/Aでは保存できないのである。
いずれにせよ,XMLベースのテキストアーカイブを補完する仕組みとしてFont Museumの存在意義はあるものと考えており,さらに検討を続けていくつもりである。
2007年02月18日
「悠久の美」展を見る
文字も鑑賞できた「悠久の美」展
東京国立博物館平成館で開かれている「悠久の美」展を見た。点数は61点と少ないが,副題に「中国国家博物館名品展」とあるように,極めて見応えのある中国の国宝級のものばかりである。
もとより,この種の逸品を見るのは初めてではなく,むしろ多いほうかもしれない。とくに台湾の故宮博物院には何回も通って具に鑑賞しているが,今回は初見のものがほとんどで感激を新たにした。
この展示物は,新石器時代から唐・五代までの,土器,青銅器,玉器,金銀器,青磁,唐三彩などである。とくに青銅器が25点もあり,商,春秋時代のものが多かっただけに,そこに刻され,あるいは鋳込まれた文字を見ることもできた。
大汶口出土の玉琮(玉器の一種で円筒形をなすもの)には,漢字のルーツではないかと言われている記号が細密な線で刻されているのだが,これは光線の具合もあってほとんど視認できなかったのは残念であった。
さらに,実際には置き方の関係で正面からみることはできなかったが,「天亡簋」(てんぼうき=簋は神に捧げる食物を盛って供えるための底の浅い容器)の底に記された金文の拓本が解説書に載っている。これは書芸術に通じると言ってよいほどのものであろう。
いずれにしても,これらの文字を見ていると現在の漢字とつながっていることが実感できる。この連続性を無視して漢字の字形を規定してはならないと,つくづく思うのである。
2007年02月09日
Vistaの文字問題
新しいWindows OS“Vista”の登場
1月30日にマイクロソフトはWindows Vistaを発売開始した。それに呼応してパソコン雑誌も“Vista特集”を組んで宣伝に力を入れている。パソコン雑誌としてはOSが変わったときが一番の売れ時なので力が入るのも頷ける。しかしその中から数冊を選んでパラパラとページをめくってみて強く感じることがあった。“Vista”をよいこと尽くめのように持ち上げていて,大きな問題の存在をはっきり書いているものはほとんどなかったのである。
しかし,もちろんそんなことはない。文字問題がそれである。
Vistaの文字問題とは
今回のOSではシステムフォントとして新たに「メイリオ」という書体が搭載された。この書体名は「明瞭」が訛ったものだそうであるが,その書体の字体までも訛ってしまった。漢字122字について,従来のMS明朝,MSゴシックの字体とは変わってしまったのである。それはたとえば次のようなものである(右がVistaで採用された文字の字体)。

このことは決して小さな問題ではない。同じ文字コードで字体が変わってしまうことになるのであるが,そのデータをみた人は,それがどの字体の文字を書き手が選択したかったのかを知る手がかりがないのである。
もう少し詳しく説明する。
たとえば,ある人は従来のWindows XPを使って文書をつくり,ある人はWindows Vistaを使って文書をつくる。標準で搭載されている文字種の範囲で文書をつくれば,上述の122文字種についてこの二つの文書の間には字体の異同が生じることになる。しかし,その文書を他の人が受け取って自分の使っているパソコンで処理した場合,書き手の意図に関わらず,表示・出力される字体は受け取った側の環境によって決まってしまうのである。
この関係を簡単に図示してみよう(「ケース1,2」と「ケース3,4」は同じことを言っているのであるが,ユースケースとしてイメージしやすいように分けて図示した)。
問題なのは,受け取った人にとって,書き手がどのOSを用いたのかがまったくわからないことである。したがって書き手が従来の略字体で書きたかったのか,あるいは今回採用された旧字体(いわゆる康煕字典体)にしたかったのかがわからない。文書データのプロパティをみても,OSまでは示してくれない。したがってデータだけからは書き手の意向を判断するすべがないのである。
自分が文書をつくって自分で使うだけなら何の問題もない。しかしたとえば複数の著者からの原稿を集めてひとつの書物にしようというときのワークフローを考えると,データ自体は何も語ってくれず,最後は人が一件ずつ確認する以外にないことになる。
市名や地名などの固有名詞が多い文書を印刷するところでは,おそらくそれらのコミュニケーション費用も膨大になるであろう。しかし,こんなに大きな問題を抱えるにも関わらず,あまり大騒ぎされていないのが実情である。
PAGE展では?
今日までの3日間,日本印刷技術協会主催のPAGE展が東京・池袋のサンシャインシティで開催された。さすがにここは印刷業界中心の展示会であったから“Vista文字問題”の関心は高かったといえる。いくつかのチェッカーやプラグインが発表されていたし,字体変更前と後の両方のフォントを用意したり,コンバートテーブルを用意したり,というソリューションもあった。そしてそれらの説明には人だかりができていたことは関心の高さをうかがわせた。
チェッカーのひとつは,まだ参考出品ということであったが複数の文書テキストファイルをサーチして変更対象文字の有無を検知,それを別ウィンドウで示すものであった。このツールもそうであるが,最後は人間が確認せざるを得ない。全自動で判断することは難しいように思う。
このPAGE展の併設コンフェランスの一環で,一昨日にあるトークショーがあって出席したが,そこでもVistaの話で盛り上がった。そこの発言にもあったことであるが,実はこの問題,マイクロソフトの責任とは言えない。もちろんVistaを搭載したパソコンを販売しているメーカーやディーラーの責任でもない。「国家標準たるJIS規格の問題だ」という指摘も上がった。
しかしそうであろうか。たしかに直接的にはJIS X 0213:2004に沿って実装したことがこのような事態を招いたといえるのであるが,さらにその原因は『表外漢字字体表』に行き着く。これが「印刷標準字体」と位置づけることが強要され,それに漢字規格と文字インフラが従ったまでなのである。
マイクロソフトの「Microsoft® Windows Vista™ における JIS X 0213:2004(JIS2004)対応について」においても,
マイクロソフトでは、日本文化に根ざした情報化社会の実現を引き続き支援するために、Windows Vistaで、「国語施策として示されている印刷標準字体」および「法令に基づく施策である新人名用漢字」の双方に対応した最新のJIS規格、JIS2004に対応した日本語フォントを搭載しています。と記載している。この表現は間違いではない。
教訓が生かされない日本の文字行政
実は,このような問題が生じたのは初めてではない。いわゆる78-83問題というのがあった。
コンピュータで扱う漢字のJIS規格は1978年にJIS C 6226として制定された(後に,規格番号がJIS X 0208と変更された)。JIS規格は5年ごとの見直しをするのが原則となっており,この規格も制定5年後の1983年に改定が行われたのであるが,このときに約180字の字体入れ替えをしているのである。
たとえば,よく引き合いに出された例として,
鷗 → 鴎
蠣 → 蛎
などがあり,「森鷗外」が「森鴎外」に,「蠣殻町」が「蛎殻町」になってしまったということがおきた。しかし1983年といえば,まだインターネットもなく,パソコンを使って商業印刷を行う環境もなかったから,もっぱら個人または企業内ユースでの問題に留まっていた(日本語DTPの登場は1985年である)。すなわち,A社のパソコンで文書をつくって画面で確認した文字の字体と,それをB社のプリンタで印字した字体が違う,という問題がほとんどだったのである。当時のワープロは,まだ文書清書機として使われていたので,印字してみてはじめて違いに気付くということになったわけである(下図)。
しかしこの問題も大きくとりあげられ,JIS規格の管理省庁である当時の通産省には多くのクレームが寄せられた。そこで1990年のJIS改定では,このクレームに懲りて「字体はいじらない」という原則を固持したのであった。それが2004年の大改定で大きく変えてしまったのは,国語政策に引きずられたとは言え過去の教訓を生かせなかったといわざるを得ない。本来は歴史のぜんまいを逆に回すことなどしてはならないのである。そういう意味でも,いまさら康煕字典体か,ということについての議論もしていかなければならないであろう。
とくに,現在は1983年当時とは影響の度合いが比較にならないほどコンピュータインフラは拡大し,しかも印刷技術の中枢にまでなってきた。「表外漢字表」制定において,この種の変更が社会に対し,日常生活に対し,そしてとくに文書を扱う産業に対してどのぐらいの影響が出るのか,といったシミュレーションがどの程度行われたのかは極めて怪しい。そういう意味でも,今後しっかり検証していかねばならないであろう。
2007年02月03日
『諸橋轍次博士と大漢和辞典』展
新潟県ネスパスで開催の『諸橋轍次博士と大漢和辞典』展をみる

2006年11月16日
書けない常用漢字
常用漢字は書けて当たり前か
今月14日付朝日新聞夕刊の文化欄「単眼複眼」に,“「書けない」常用漢字”と題する一文が載った(白石明彦氏の署名文。副題は「文化審議会国語分科会 見直し議論も」)。
ここではまず,文化審議会国語分科会の漢字小委員会での東倉洋一委員(国立情報学研究所副所長)の指摘紹介から始めている。それは日本語のブログ急増によって,「書かれた話し言葉とも言えるブログ言語のはんらんであり,漢字や日本語表現の誤用が増幅されてゆく」と述べ,さらに「漢字を書くのと,かな漢字変換機能で選ぶのとでは使う脳の機能が違う」ために,パソコンで「書く」ことを続けているうちに「書ける漢字と読める漢字は乖離する一方だ」と指摘しているのである。
それに対して松岡和子委員(翻訳家)は「書ける字,書けなくても読める字と,様々なレベルの漢字があっていい,という方向で考えてはどうか」との発言があったことを紹介している。
この文を読んでまず思ったのは,それでは今の常用漢字はいったいどうなのか,ということである。国民最低限の漢字知識という観点から言えば,義務教育でどこまで教えるのかというところを見るしかないのであるが,中学校の学習指導要領では,中学校卒業までに,
- 教育漢字1006字を書くことができ,文章の中で使えるようになること
- 教育漢字以外の常用漢字939字の大体を読むことができること
そして「中学校学習指導要領(平成10年12月)解説-国語編-」の中で,
漢字の読みについて示した字数と書きについて示した字数とに差があるのは,読む漢字と書く漢字とを区別して指導するということではない。生徒の漢字の習得においては,読める漢字の字数と書ける漢字の字との間に差が出てくるという実態を考慮したためである。
と述べられている。理由を述べている後半の文章は何を言おうとしているのかがよくわからないが,しかし学習指導要領で定めているのは上述の二点に収斂される。したがって,今の人たちが常用漢字のすべてを書けないのは,むしろ当然とも言えるのである。さらに表外漢字は読めなくても致し方ない,というのが現在の状況であろう(紙上では先ほどの「乖離」にルビを振っているが,「乖」が表外漢字だからである)。
逆に,「常用漢字の大体を書けること」とするのならば,その前に明確にすべきことがたくさんありそうである。いったいどう書けばよいのか,が必ずしもはっきりしていないからである。
この最後で,文化庁国語課の氏原氏の「学校教育への影響も大きいだけに,慎重に審議していただく」という発言を伝えているが,こうした点を含んだものなのであろうか。いずれにしてもかなりの難題であろうと思う。
2006年11月02日
白川静先生の訃報に接して
白川静先生が亡くなられたことを今日の新聞で知った。
朝日・毎日・読売の各紙は一面で報じ,さらに社会面等で白川先生の業績などを紹介していたし,日経でも一面にはなかったものの,社会面では四段抜きの見出しで大きく報じていた。
私は先生に直接お目にかかったことはなく,ご著書によってその業績の一端を存じ上げているだけである。しかし振り返ってみると,私の漢字に対する見方・考え方の多くは白川先生への共感から生まれているといっても過言ではない。私には学者として尊敬する方が3人おられるが,先生はそのお一人である。
漢字学において先生の右に出るものはいないほどの碩学であるにもかかわらず,国の漢字行政にかかわっている国語学者からは軽視(無視?)されているようにも感じることがあるが,それは単に私が論文に目を通していないだけのことかもしれない。しかし,とくに戦後の国語政策に対してたいへん厳しく糾弾されていたことや,『説文解字』の誤りを根本から指摘したりされたことも関係しているのではないか,と穿った見方もしてみたくなることもある。
先生は,
ウソを教育してはいけない。犬のつく字は十二,三あるけれど,『獣』や『献』のように点がついている字がある一方で,『臭』や『突』のように本来は『犬』とすべきところを『大』で済ませている。あまりに思慮が足りない。と述べている(2005.8.19付 日経新聞夕刊)。
こういう目線で新字体の漢字を批判されたら,戦後国語政策を推進してきた人たちにとってはたまったものではないであろうことは容易に推測できる。
が,そんな俗世の価値観などを超越しているのが「白川静」という存在であろう。
「白川静」--大き過ぎる。
これは「別冊太陽」の『白川静の世界』(平凡社 2001)の冒頭の言葉である。この「はじめに」には,「白川漢字学」や「白川文字学」は身近だが「白川静学」に入る人は少ない,といった表現も見える。これは『白川静著作集』の中身を言っているのであるが,白川静の全貌を知ることなど,私のような凡人にとっては絶対に不可能と思ってしまう。
しかしたったひとつの文字の意味を知る,というところからの積み重ねだけでもよい。これからも先生についていきたいと思う。
3年近く前,朝日新聞夕刊「文化」欄の「聞き書き 繰り返し見る夢」に先生の話が載った。先生93歳のときである。仕事を終えた後の夢は? との質問に対して,
「大航海時代叢書」を読むこと。僕はほとんど旅行をしないからね。(中略)だから,せめて本の上で時空を超えた世界旅行をしたい。と語っていた。いまごろ,ほんとうに時空を越えた楽しい旅行を実現されているかもしれない。
奇しくも,先生が亡くなられた先月30日は私の誕生日であった。
心からご冥福をお祈りします。
2006年10月27日
文字・活字文化の日に考える
「文字・活字文化振興法」について
今日は「文字・活字文化の日」である。これは平成17年7月29日に「文字・活字文化振興法」が公布・施行され,10月27日,すなわち本日が「文字・活字文化の日」として制定されたことによるものである。
平成17年版文部科学白書の第2部第9章第1節から,この法の制定趣旨を抜粋しておくと,
平成17年7月に,議員立法として「文字・活字文化振興法」が成立,公布・施行されました。この法律は,文字・活字文化の振興に関し,基本理念を定め,国や地方公共団体の責務を明らかにするとともに,地域における文字・活字文化の振興や,学校教育における言語力の涵養,10月27日を「文字・活字文化の日」とすることなどを定めることにより,我が国における文字・活字文化の振興に関する施策の総合的な推進を図り,知的で心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することを目的としています。
これを受けて,文部科学省においては,図書館の充実,読書活動の推進,学校図書館の充実等の施策の一層の推進などの「文字・活字文化」の普及・啓発に取り組んでいくこととしています。
と謳われている(詳細は文部科学省HP参照)。
地域や学校での,こうした文化を享受できる環境を整備していこうというのはたいへん結構なことである。小さいころからさまざまな本をできるだけ多く読み,自分でも文章を書くという行為を通じてしか,自分の思想を磨き,そしてそれを表現する力はつかない。現在の義務教育では,そのための時間をたっぷりとっているようには見えず改革を望んでいただけに,この法の実りある成果を期待したいところである。
この法の第二条で「文字・活字文化」を,活字その他の文字を用いて表現されたもの(以下この条において「文章」という。)を読み,及び書くことを中心として行われる精神的な活動,出版活動その他の文章を人に提供するための活動並びに出版物その他のこれらの活動の文化的所産をいう,と定義している。したがって,「文字」と「活字」は,前者は書く対象,後者は読む対象の字を指すと考えられる。
ここでたいへん興味深く思ったことは,「活字」という言葉である。出版・印刷業界で言う「活字」は,死語とまでは言わないものの,大方はすでに過去のものとして受け止めている。それが法律の名称として使われていることを面白く感じるのである。
もっとも,この法律の制定に関係したのが「活字文化議員連盟」(子どもの読書活動の推進や,活字文化の振興・普及を目指す超党派の議員組織)であったから,「活字」という文字を冠することには違和感もなかったであろう。さらに読売新聞社の「21世紀活字文化プロジェクト」など活字という言葉を冠した組織はいくつもある。一般にも「活字離れ」などという言葉は,ごく普通に用いられている。つまり「活字」という言葉は生きているのである。まぁ,「レコード産業」とか「ブラウン管に登場」といった表現と同じということと同じ用い方といってよいであろう……と本当に言えるであろうか。
実は,これらとはちょっと違うようにも思われる。少し「活字」について考ええてみよう。
あらためて「活字」について
一般用語としての「活字」の定義をみておきたい(以前,「活字体」については少し触れたことがあるが)。
広辞苑では,
活版印刷に用いる字型。繰り返し使用するところから、活きている字の意。(以下略)
とある。
Wikipediaでは,
活字(かつじ)とは、狭義には、活版印刷の際に文字の図形を対象(特に紙)に印字するもので、木や金属に字形を刻み、それにインクをつけて何度も印刷できるようにしたものを言う。としている。死語に近いといった意味は,広辞苑の定義やWikipediaの「狭義」の定義である
フォントメーカーのモトヤのサイト「活字資料館」の
平成8(1996)年7月31日,創業以来75年間にわたって共に喜び,共に苦しんできた「活字」との別れの日を迎えた。も狭義の活字を指している。
Wikipediaでの前記の定義の次に,
また、単に印刷物にすることを「活字にする」とも言うように、印刷やコンピュータ画面で文字を同じ字形で繰り返し表示するものをも指していう。
と述べられているが,この定義はやや中途半端で,「活字文化」,「活字離れ」の用例よりも狭い感じがする。
活字という語は,広辞苑にあるように一度文章を組んで本にした後,それをばらして別の組版を行うために再度それを活かすことができる,というところから命名されたものである。
そうであれば,昔の鉛活字の終焉で活字という言葉も終わりを告げたのではなく,現在のデジタルフォントは活字以上に「活きた」使い方ができるわけであるから,フォントを活字と呼んでも問題はないはずである。
私は今まで,このBLOGでは活字という語をそのような意味では使わず,「印刷用の文字」というような,持って回った言い方をしてきたが,今日の「文字・活字文化の日」を契機に,デジタルフォントについても適宜,活字という表現を使っていこうと思う。
2006年10月10日
自動車の「ご当地」ナンバープレート導入開始される
自動車のナンバープレートにおける地域名表示の漢字字形
今日から「ご当地ナンバープレート」がお目見えした。これを伝える今日の夕刊は,「各地の運輸支局や自動車検査登録事務所は新しく誕生したプレートへの交換を求める人で混雑した」(日本経済新聞)と報じていた。
これは,従来は自動車のナンバープレートには自動車の使用の本拠の位置を管轄する運輸支局または自動車検査登録事務所の名称等が表示されてきたのであるが,平成16年に国土交通省が地域振興や観光振興等の観点からナンバープレートの地域名表示を弾力化し,自動車検査登録事務所の新設の有無にかかわらず新たな地域名表示を認めることとした,いわゆる「ご当地ナンバー」が誕生することになったことに伴うものである。
そしていよいよ「仙台」,「会津」,「諏訪」,「金沢」,「川越」,「成田」,「柏」,「高崎」,「那須」,「一宮」,「岡崎」,「豊田」,「伊豆」,「鈴鹿」,「堺」,「倉敷」,「下関」の17ナンバーについて本日から導入が開始されたのである。
ここで少し気になることがある。これらの新しいナンバープレートの一部が写った写真を一度(ちらっと)見たことがあるが,地域名の字体が何の変哲もない,ひどくマトモなものに見えたのである。それは当たり前と思われるかもしれないが,実はそうとも言えない。自動車は動くものであるから,ナンバープレートに記された文字の可読性を考えるときには静止状態で凝視する環境で評価するのは実態に合わない。そこで字形についても「物理的な正しさ」より「瞬間的に,それらしく見える」機能が追及されることになる。

こうした字形のデフォルメは多くの地域名表示用漢字に見られる。たとえば「釧路」の“釧”のカネヘン,「秋田」の“秋”の火,「練馬」の“練”の東,「滋賀」(両方の文字),「鳥取」の“鳥”の四点,そして「愛知」の愛などである。「群馬」の“群”の偏の左ハライ起筆のちょっとしたアキも十分に検討された結果であろう。
「愛知」の愛は「愛媛」とはまったく異なるデフォルメであるが,これも面白い。ただ,これらのすべてが「走行時の可読性」を重視した結果なのかどうかはわからない。なかには,かえって可読性を低めているのではないかと思われるものもなくはないのであるが,いずれも「工夫のあと」は窺える。そして,偶然とは思えないのであるが,古くから存在する地域名にその傾向が強い。逆に言えば最近のものは当たり前のものが多くなった,ということである。
今日から登録開始となった「ご当地ナンバー」の字形がどんなものになったのか。そういう意味で興味がある。
ついでに,高速道路の文字の話
10年も前の話になるが,1996年1月26日の朝日新聞夕刊に「首都高速 ヘンな字体やめます」という記事が載った。それまでの首都高速道路の表示字形は,とくに画数の多い文字について「見やすさ」の観点から独特の字形を採用していたが,「文字をつくるのに経費と時間がかかる」ことと「子どもから,学校で習う漢字と違うと指摘を受ける」などの難点があり,時速100Kmの走行テストで読み取りに支障がないことがわかったので本来の字体の文字に変える,というものであった。
私も当時,首都高速道路は頻繁に利用していたが,迂闊にもこの新聞記事を読むまでこの事実を知らなかった。しかし次の写真のように,それまでは「銀座」の“銀”,「首都」の“都”などの字形を少し変えていたのを「正しい」(!)字形に改めた,というのである。
このことは何を意味するのであろうか。自動車のナンバープレートでは「物理的な正しさよりも,瞬間的にそれらしく見える」機能を重視していると述べたが,高速道路の表示においては,この機能はもっとも重視されなければならないものである。“銀”や“都”のデフォルメはそのための工夫の所産だったのではないであろうか。しかし「本来の字体と違う」という指摘に対して「テストの結果,問題ない」としてごく当たり前の字形に変えられたわけである。
この新聞記事によれば,「“見やすさ”についての考え方の違いが原因だが,両者を比較した資料はなく,判断はドライバー次第ということになりそうだ」としている。
多少穿った見方かもしれないが,結局のところ本質論より建前論が優先される世の中を象徴していると言えなくもない。それは,前にもこの場で述べた義務教育での漢字字形へのコダワリともつながっているのである。
2006年10月02日
義務教育の考え方について
二つの新聞記事から
先に「義務教育における漢字学習」について論じたが,その続きということではなく,たまたま新聞記事を読んで気がついたことを記しておきたい。
書店での立ち読み
今日の日本経済新聞朝刊5面の「インタビュー領空侵犯」には音楽評論家の湯川れい子さんが登場,書店などでの立ち読みは国家的な財産侵害に当たる,と手厳しく糾弾し,「このまま立ち読みを許し続ければ,だれも良いものを出そうとしなくなる。次世代の才能は育たず,日本の文化は衰え,国の力が低下してしまいます」と述べている。まず問題の捉え方に同感。
私自身,出版人を父に持ち,しかも出版・印刷業界の周辺で40年近く仕事をつづけているだけに本に対する姿勢は人一倍厳しいほうかもしれないが,それにしてもいまの立ち読みのひどさは「たかが立ち読み」では済まされないし許されもしない。
このインタビューで湯川氏は記者の「どうやって立ち読みをなくしますか」との質問に,「結局は一人ひとりのモラルに訴えるとともに,知的財産や著作権がいかに重要であるかを教育を通じて徹底するしかないでしょうね。長い道のりですけど」と答えている。
即効薬は提示していないが,要するにこの種の問題に対しては即効薬などないのである。「教育を通じて徹底するしかない」ことにも心底から同感できる。問題は,そういう教育が現在のシステムで可能かどうかということであろう。というより,現在の教育システムでは,いったい社会人としての基本的な心構えに対して,どういうことを,どんな形で教育するのか,というビジョンが欠落または徹底されていないように思われるのである。
小学校での英語教育,是非論
このBLOGの「義務教育における漢字学習の問題(1)」(9月7日公開)で,
文科省は8月29日,2007年度予算の概算要求を発表したが,その中で小学校の英語教材に38億円を計上したという。国語の基礎学力が落ちている現状をそのままにして英語教育に力を注ぐことには疑問を呈せざるを得ない。
と書いたが,その報道があってからちょうど1ヵ月後の9月28日付の新聞各紙は,新内閣の伊吹文科相が小学校での英語必修化に対する慎重発言を行ったことをいっせいに伝えた。
これは学習指導要領の見直し改訂に関しての発言であるが,国民の目からは「義務教育をどう考えるのか」という視点での中心軸が定まっていない印象を受ける。小学校段階から英語を履修させることの是非について従来からさまざまな議論があることは承知しているし,そのそれぞれに「それなりの」説得力がある。
たまたま昨日は本郷の文生書院で「澪標の会」の定例会を行ったが,そこでもこの問題が一頻り話題になり,案の定(?!)是非論が交錯した。どちらの道が正しいかはわからない。私の個人的な思いとしては「限られた時間の中で優先順位をつけるとしたら,もっと国語教育に力を入れてほしい」と考えているのであるが,いずれにしても「英語を教えるかどうか」という表面的なことではなく,義務教育を「人間形成の場」と捉えたときに,いったい何が重要なのかという視点で精緻な分析をしていくことが重要であろう。そのとき,義務教育を終えた人たちの行動傾向などを掴み,それらの結果を教育にフィードバックして内容の精度を高める仕掛けもまた必要なのではないかと思っている。
2006年09月12日
朝日新聞,文字を変える(1)
本文文字を太くした朝日新聞
義務教育における漢字学習の問題を論じているのであるが,閑話休題,朝日新聞が昨日の夕刊から本文文字を少し変えたので,ここで少しだけ触れておきたい。
朝日新聞の説明によれば,文字サイズは変えずに本文文字の横線を若干太めて可読性を上げたという。とくに高齢化社会に対応して,くっきり見えるようにしたとのことである(下図は9月11日付夕刊1面の囲み記事)。

ちなみに,下に示す図版は「天声人語」の変更前と後のもので,上が9月10日,下が9月12日に掲載されたものである。600dpiでスキャンしたことにもよるかもしれないが,全体的な印象の差異は微小である(地のグレーの濃度が変わってしまったので,この図だけからは判断していただけないことをお断りする)。
ただ,画数の多い混んだ文字の黒味は増しているので,記事によっては版面の黒味は増大している。したがって文字の濃度差はいくぶん大きくなっているように感じられる。
ところで「読みやすく」という狙いについてであるが,高齢者にとって有意差のある改善は得られたのであろうか。今月で96歳になる私の母親は眼鏡をかけたうえにルーペを使ってやっと読めるという状態であるが,「見え方はほとんど変わらない」そうである。
今回はトピックスとして取り上げたが,新聞用書体については別途のテーマとして論じたいと考えている。