2006年09月19日
(4)新聞の題字にみる「教育的配慮」
教育的配慮は教科書だけではない。次表に示すのは「朝日新聞」と,同紙の姉妹紙である新旧の「朝日小学生新聞」(朝日学生新聞社)および同じく同紙姉妹紙「朝日旅行」の題字である。
| 朝日新聞 | 小学生朝日新聞(旧) | 小学生朝日新聞(現) | 朝日旅行 |
朝日新聞の題字の「朝」,「新」などは現在の明朝体の骨格とは明らかな違いがある。ただ,書体が異なるので字体として比較することには意味がない。ちなみにこの題字は欧陽詢の書,『宗聖観記』の碑文から集字したものであるが,碑の中に「新」がなかったために「親」の左と「柝」の右を組み合わせて合成したという。それでは合字の過程で間違った文字をつくってしまったのかというとそうでもない。白川静先生によれば,「新」は「辛・木・斤」から成り立っており,位牌を作るための木を選ぶのに「辛」すなわち取っ手の付いた針を投げて,それが当たった木を「斤」(斧)で切ることを「新」といったのだそうである。偏が「辛+木」であることは代表的な小篆体をみてもわかる。次図は白川静著『常用字解』から引用した小篆体であるが,明らかに一本多い。朝日新聞の「新」は間違い字ではないのである。
つまり長い歴史を持つ朝日新聞の創刊号からの題字字形にはこだわらず,というよりあえて変えることで余計な誤解や疑問,批判を封じる配慮を優先したということであろう。その証拠(?)に,同じ朝日新聞の系列会社が発行している「朝日旅行」の題字はひと目で朝日とわかるものである。これこそがロゴの効用であり,「朝日小学生新聞」はその効用を犠牲にし,「当たり前」の文字を使った題字にしているという点において,やはり教育的配慮が働いたと解釈して間違いあるまい。
もっとも「朝日小学生新聞」が現在の題字になったのは2000(平成12)年7月1日版からだそうであるが,その変更理由は「より親しみやすくするため」だったそうである(「朝日学生新聞社」への電話取材による)。字形を変えただけでは,隷書体という古典的な書体の題字は「親しみに欠ける」と判断したのであろうか。
「違う」ということの意味
前回は「わかる」ということの意味を考えたが,わかるということのなかには「違いがわかる」,「違いとは言えないことがわかる」ということも含まれるのは当然である。とくに文字の世界では,「違う/違わないがわかる(判断できる)」ということはきわめて重要なことであって,漢字学習の中で「違いの本質を教える」ことは必須の要件である。
漢字における「違い」は,おおまかにわければ次の3種類に分類できよう。
- 筆写の書体と印刷表示用の書体における違い
- 印刷表示用の書体間における違い
- 同一書体における違い
今回問題にしたのは,1.の「筆写の書体と印刷表示用の書体における違い」であって,実際に筆写するのは前者,教科書等に表示されている書体は後者であるが,それらの比較において「違うかどうか」を判断できる知識を教えることが漢字学習の重要な要素であるはずである(教科書体は筆写の字形と印刷表示用の字形をかなり近づけたデザインにしているが,厳密に解釈すれば,後者は前者で許容されるユレを捨象した代表字形として具現化されたものということができ,やはり「違う/違わない」の判断対象になるのである)。
しかし,字形を教えるのに用いた教科書体とは異なる書体である明朝体を用いながら,明朝体本来の様式を捨ててまで筆写の字形に近似させるという中途半端な妥協をして「お茶を濁す」ようなことをするから,社会人になっても漢字理解がしっかりできないことになるのだと思う。とくに義務教育課程は,その後の「考え,判断する基本能力」を養う場であるから,けっして「逃げ」は許されない。今回のOkuhさんからのコメントにもあるように,そういう基礎力養成という点ではアメリカの教育の方が数段優れているように思う。
今後の課題については項を改めて,「字形同定」の問題として分析を行っていきたいと考えている。
2006年09月17日
(3)ほんとうに「わかる」ということ
教育の原点は,ほんとうにわからせることだと思う。「わかったつもりになること」と,「ほんとうにわかること」の間には本質的な違いがあるのだが,その違いが疎かにされてはいないであろうか。教師には,生徒がほんとうにわかったのか,単にわかったつもりになっているだけなのかを執拗に観察していく努力が求められるし,その一方でほんとうにわからせるにはどういう教え方をすべきかを真摯に追求する姿勢が継続的に求められているのである。
「教育とは何か」について,私はずいぶん前から佐伯胖氏の著作で多くのことを学んできた。とくに『コンピュータと教育』(佐伯胖著 岩波新書 1986)は一般向けに易しく書かれた啓蒙書であるが,私は名著だと思っている。この本の第5章“「わかるということ」の原点にかえる”からの一節を引用してみたい。
「わかる」ということは,ああそうですか,そうやりゃあいいのですかということではない。「わかる」ということは,「……にもかかわらず,わかる」ということである。「4という数と3という数が突然7という数になってしまう。そんな不思議なことがあっていいのか。そんなことをほんとうにたしかな事実として信頼し,それに頼ってよいのか。」このような不安,おそれとおののきにもかかわらず,たしかに,たしかに,それでいいと受け入れることが,「わかる」ということの本質だと思われる。このような「わかる」瞬間,私たちは人類の何万年もかけた文化の歴史がこの一瞬の中に凝集されていることを感じる。人はシンボルを使うことを知った。そして,シンボルを通して,本当のことがわかることを知った。ああ何とすばらしいことだったかという感動や,それをしみじみ味わう働きがわきおこっているはずである(この何十億もある脳細胞のどこかでは)。
いまの小学生や中学生の勉強離れが深刻化している。それは教室に座って教師の話を聞いていても,ほんとうに「わかった」と実感できることが少ないということにも原因があるのではないであろうか。真の教育改革というのは,「何を」よりもまず「どう」教えるかについての見直しから始めるべきではないかと思う。
このことはおそらく漢字学習についても言えることであろう。ほんとうにわかれば興味も湧いてくる。ひとつの形を示して,「とにかく,これとまったく同じ形に書けるようになりなさい」とだけ命令しても,わかることには繋がらないし漢字に対する興味などは持てるようになるとは思えない。
もちろん,「まなぶ」は「まねる」ことから始まる(というより,この二つはもともと同系のことばのはずである)。しかし「なるほど,そういうことなのか」と心から納得できるストーリーが,漢字にはかならずある。それが表意・表語文字の強みでもある。小学校第一学年で教える,たった80字の漢字についてさえ,そういうストーリーはいくらでも語ることができるのである。単に「こう書きなさい」と言って無機的な反復練習をさせても興味が湧いてくるはずがない。興味を抱かせることができるストーリーを考えるのが教師の仕事であろう。
たまたま前回に例として出した「女」は第一学年で習う漢字であるが,二画目の先を出す・出さないなどといった「瑣末な」ところの指摘に終始していては,面白いはずの漢字もつまらないものになるであろうし,その「瑣末な」部分を間違えないようにするために二画目と三画目の筆順を変えてごまかす,などというところに知恵(?)を働かせる子供もでてきてもおかしくない。この種のゴマカシの悪影響は,ずっと後まで尾を引くものである。
前回,「無菌室的」と称した教育的配慮,すなわち明朝体にまでも教科書体で教えた「出る・出ない」レベルの細工を施してまで,書体の違いをしっかり説明する義務を破棄する教育とはいったい何なのであろうか。しかもその種の教育的配慮は教科書の中だけにはとどまっていない。次回は簡単にこの点について触れておきたい(※ 今回ここに述べたことが,すべての小中学校の教育姿勢において見られる現象と言っているものではないことをお断りする。しかし現在,漢字理解力の低下という厳然とした現実がある以上,問題がないということはありえない。これはもちろん,教師の資質に依存する面も強いと言えるのかもしれない)。
2006年09月10日
(2)教科書に用いられている明朝体の実態
義務教育における漢字教育の中で,書体に関する理解を十分にさせる仕組みができているとはいえない可能性を指摘したが,それには多少の理由がある。私は「無菌室的」と表現しているのであるが,小学校で学習した教科書体による書体のイメージを中学校でもずっと引きずり,「書く書体」と「読む書体」の違いを満足に教える努力を自ら放棄しているような状況を感じているからである。
次の図を見ていただきたい。
明朝体には独特の様式が存在し,たとえば「衣」は全体で六画なのであるが,四画目は見かけ上,二つのストロークになっているようにデザインする。同様に見かけ上の画数が多くなるような漢字はたくさんある。前記の文字はすべて見かけ画数が実際の画数より多い文字である。
ところが教科書の明朝体では「見かけ画数」の文字に手が加えられ,正しい画数を表現していることがわかるであろう。
もうひとつ,次図に教科書から例を引用しておく。

明朝体の様式を無視してまで変える字形の意味とは何か
もともと教科書体は書写の文字として教えることを前提としている。つまり「書き文字」なのである。それに対して明朝体は読むための文字であり,これらふたつの書体の位置付けはまったく異なる。したがって,学校教育では,その違いを正確に教えることも必須でなければならない。にもかかわらず,明朝体字形に手を加え,教科書体として教えた形(骨格)に近づけようとする。これは真の漢字教育上からは,無駄というより悪に近い余計なおせっかいであって,こういうことをするから漢字の字形理解がなかなかできないことになるのである。
しかし,なぜこんなことをするのであろうか。それは小学校の漢字教育が,一点一画について「学習指導要領」の漢字配当表に寸分違わずに教え,それから幾分かでも逸脱(たとえば,ちよっと出てしまうとか,少し離れてしまうといった微小な差異)に対して厳しく評価し,バツをつけてしまうという「教え方」に根源があるように思う。
たとえば漢字配当表に示される「女」の字形は,二画目の起筆が三画目の横画よりわずかに上に出ている。そして,そのように書くことを教える。しかし一方,常用漢字表の「女」をはじめ,明朝体字形としては「女」の二画目は上に出していない。ところが教科書の明朝体における「女」は,二画目の起筆が少し上に出ているのである。つまり明朝体という,教科書体(書写用の楷書の一種)とはまったくカテゴリーの異なる書体の字形を,教科書体に必死に合わせようとしているわけである。それは,生徒が少し二画目を上に出してしまうとバツをつけるのに,教科書ではなぜ上に出ている形が許されるのか,という生徒の疑問に真正面から答えないで済む仕組みをわざわざ用意した,ということであろうと思うのである。
つぎに示すのは,フォントメーカーから出ている「学参フォント」として販売されている明朝体とゴシック体の例である(ここではモトヤの書体を同社のWegから引用して例示した)。

「女」の二画目はみごとに上に突き出している。この種の「学参明朝」は他のフォントメーカーからも出されているが,このような書体をつくったのは,もちろん需要があったからである。したがって「つくった方が悪い」ということにはならないが,こうした「明朝体」がかえって漢字の理解を妨げ,社会に出てからの(漢字についての)常識を持てない一つの大きな原因をつくっていることもたしかだと思う。私はこれを称して「無菌室的」といっている。
別言すれば「教育的配慮」ということであるが,このような「特殊な明朝体」を何の説明もなく(というより説明抜きで使う前提で,このような特殊構造にしているというべきである)教育現場で使用しているのである。しかし家に帰れば新聞やテレビのテロップなど,それとは異なる明朝体が氾濫している。一般書籍には,教科書に用いられる「明朝体」などは使われていない。この落差を生徒たちはどう受け止めるのであろうか。また教育に携わる者はこれをどのように教えるのであろうか。残念ながらほとんど不問に付されているのが実態であろう。
漢字字形のユレについて
ついでに,書写の文字字形で,どの程度のユレなら認められるのかということについて,その考え方の本質に少し触れておきたい。
また「女」を例に出す。「二画目の起筆を三画目の横画よりわずかに上に出す」ということは書写の場合に簡単であろうか。「わずかに」をどの程度に解釈するかにもよるが,実際に書いていただければわかるように,なかなか難しい。実は難しいか易しいかには,ある条件が関係している。起筆位置は制御しやすいので,「ここ」と決めれば,その位置にペンを置くことは可能である。収筆部についても,それが「トメ」であれば制御できる。しかし,たとえば「ハライ」や「ハネ」の先端(収筆)は勢いがある(速度を伴う)から,なかなか制御しにくい。それは運筆途中についても同様である。
そこで「女」について再度みてみよう。二画目の起筆を問題にしているのであるから,制御は楽だと思うかもしれない。しかし実際には三画目のストロークの途中との関係を問題にしているのである。つまり三画目を運筆している最中に,二画目の起筆のわずか下を通す,などということに意を用いることが必要となるが,なかなかぴったりした位置には収まってくれないということにもなる。
しかし先ほども述べたように,純粋な起筆位置だけが問題になる部分,またはトメ要素の収筆部分については厳格に規定しても,そのとおりに運筆することが可能である。たとえば「クニガマエ」(口でもよい)を書いてみよう。一画目の起筆は,まさに自分が「ここ」と決めた位置に置くことができる。収筆もトメであるから同様。そして二画目の起筆は一画目の起筆部にあわせるので,これも正確な位置に置くことは簡単である。そして転折後の縦画の収筆もトメであるから,左側の一画目の収筆位置をにらみながら最適値に置けるであろう。そして最後の三画目も,起筆・収筆とも一,二画目との関係を意識して正確に運筆できる。
それでは逆のケースを考えてみる。「非」を書いてみることにしよう。問題は四画目の右ハネ上げの先端をどうするか,ということである。常用漢字表の例示字形の「非」は先端を右に出す形であるが,漢字配当表の教科書体では「出さない」形である。この四画目はハネ上げなので,当然勢いよく運筆することになる。その場合,ぴったり一画目の線上で止めるのは至難の業ということになる。こういうケースでは,書写のユレがある程度あるのはやむを得ないと考え,字形を決定する必須の骨格要素とはしないというのが正しい考え方であるように思う。
こういうメリハリをつけず,字体が違うとか字形がおかしいというのは間違いのように思えてならない。
2006年09月07日
(1)戦前・戦後の漢字教育の差を考える
まず,紀田順一郎の「“正しい漢字”のルーツを探る」(大修館書店刊「月刊しにか」1995.5月号所収)の中から,その一部を引用したい。
(前略)
いまにして思えば小学生にすぎなかった私の身体のどこかに,古い手習いの時代の感性が息づいていたのではなかろうか。知識も道徳も一切が手習いという行為から入るしかなかった寺子屋式教育の伝統ともいえる。そうした筆書き文字の絶対的な地位は,明治の活字時代に入って相対化されたとはいえ,なお明朝体の向こうに楷書体の筆書き文字を意識してしまう性格ないし能力が,私およびそれ以上の世代には意識せずして身に備わっていたもののように思えてならない。それを一口にいえば,活字視認の能力ということになる。
現代の教育の場で,あるいは一般社会の文字環境下で決定的に欠如しているのは,まさにこの活字視認の“二重性”の自覚なのである。明朝体を仮のシステムとし,そのかなたに筆書きの生理に即した楷書体や行書体を見る能力さえあれば,ハネるのが正しいか,トメるのが正しいかなどという次元のことは問題にもなるまい。そのようなことは旧世代なら身体が記憶していた。いや,身体から引き出すことができたといえよう。
(後略)
紀田氏が言われるように,戦前と戦後では漢字教育の視点はかなり変わった。
それでは楷書体での表記を,どうやって覚えるのであろうか。
小学校では1,006字の漢字を6年間で教える。ここで教える拠りどころは「教科書体」であり,『小学校学習指導要領』のなかの「学年別漢字配当表」に字形が示されている。教科書はこの書体で組み,教師はこの形そのままに教える。もちろん,教室ではこれらの漢字を教えるに際して漢字字形としての意味,骨格,筆法等についても理解させることになる。
この「教科書体」は楷書の一種であるから,かなり粗い言い方をすれば小学校で習った教科書体の書き方で書けば楷書で書いたといえる。しかし学校で教える教科書体は良くも悪しくもたったひとつの字形である。「学年別漢字配当表」に示された字形を「寸分違わずに」教えるからである。
しかし楷書の筆法は一種類ではない。さまざまな書き方がある。それは常識なのだが,これをしっかり学校教育で教えているようには思えないのである。『中学校学習指導要領』では,「漢字の楷書とそれに調和した仮名に注意して書き,漢字の行書の基礎的な書き方を理解して書くこと」(第1学年),「漢字の楷書や行書とそれらに調和した仮名の書き方を理解して書くこと」(第2学年),「漢字の楷書や行書とそれらに調和した仮名に書き慣れて,読みやすく速く書くこと」(第3学年)とされているのであるが,この学習にどれだけの時間を注ぎ,楷書や行書をどう教え,どれだけの理解を生徒に与えているのかを考えると疑問視せざるを得ない。
私の知る限り,教科書体と楷書の関係でさえ,しっかり教えているようには思われないのである。そういう状況を踏まえた上で「楷書で書け」と言われた場合の対応力を分析しなければなるまい。
ここでひとこと付言すれば,『小学校学習指導要領』の第2章第1節「国語」には,
漢字の指導においては,学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること。
という記述があるのであるが,ここで「字体」という用語を用いるのは間違いであろう。まったく指摘がなかったわけではないであろうが,平成15年の改正でも訂正されていない。
さて話を元に戻して,戦前は,楷書や行書などの書体の特性と特徴に関する教育はしっかりしていたようである。紀田氏の指摘もそれを踏まえてのことであろう。
戦前に使用されていた『小学書方手本』には甲乙の2種類があり,同じ楷書でも字体はひとつではないことを実際に書写をさせて身につけさせていたのである(次の図は江守賢次著『解説字体字典』より複数の図を組み合わせて転載)。
また,次図は明治31年に文部省検定を受けた尋常中学校習字手本「三体千字文」の一部であるが,楷行草三体の字形構造の違いを千字文の臨書を通じて体得していたわけである。とくに楷書と行書の構造の違いをよく見ていただきたい。こうした,書体による筆法や結構の違いを丹念に習得していれば,漢字の素養は間違いなく高まっていったことであろう。
現在の漢字教育
次の図は現在の中学校学習参考書の一部(O社版)であるが,簡単な問題とはいえ行書の理解なしには答えられないはずであるから,相応の教育が行われていると想像したいところである。

しかし先ほども述べたように,現実にはこれらの学習に多くの時間を割いているとは思えない。担当教師自身の理解力ないし教養にも左右されている可能性も否定できないように思う。
いったい教師の書体に関する素養はどの程度なのであろうか。直接聞いてみたい気もする。
国立教育政策研究所では,国語と算数・数学の「特定課題調査」を実施したが,漢字教育の実態には多くの改善すべき点があることが浮かび上がってきていた。詳細は調査報告に譲るとして,「漢字は日常生活では必要だと感じてはいるが,漢字学習は好きではなく,また家庭でもほとんど練習していない」という結果には注目しておく必要がありそうである。調査結果のグラフを報告書から転載する。

しかし一方,読書をすることによって漢字を読む力が付く,という傾向も示された。これは当然ともいえるのであるが,実はここにも漢字教育の本質的問題が潜んでいるように思われる。
文科省は8月29日,2007年度予算の概算要求を発表したが,その中で小学校の英語教材に38億円を計上したという。国語の基礎学力が落ちている現状をそのままにして英語教育に力を注ぐことには疑問を呈せざるを得ない。