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2007年01月10日

(8)宋版について

宋版の誕生

石碑から拓本を採る技術は古くから行われていた。唐末には政治も不安定さを増し,外面的な取り繕いを目的として石経を彫ることが計画されたが,正しく内容を伝えるだけならば,石に彫るより木に彫るほうが効率はよい。当時にはすでに木版印刷術が知られていたから,版木を彫って紙に印刷すれば石経で世に伝えるよりもずっと簡単に済むと考えたのである。こうして木版印刷が広がっていくことになる。
当時,もっとも物資が豊かであった四川(蜀)が印刷の中心地であったという。ここを征服した宋の太祖は,ここで一切経を印刷することを命じる。この地の品質はもっとも優れていたようであるが,北宋末期には文化的な中心であった杭州の印刷に蜀本を凌ぐ質の高い本が多くなったという。
11世紀の宋代には,俗に「宋版」と呼ばれる木版印刷が多く出回るようになった。中央官庁からは多くの書物が刊行され,これを「官版」または「官本」と呼んでいる。科挙制度の整備と印刷術の成立・進展はほぼ同時並行的に行われたようである。
グーテンベルクの印刷が1字ずつの活字を組み合わせて版をつくるのに対して,宋の木版印刷は刷る紙の大きさの領域全部を木版でつくるというちがいがある。当然,1字ずつの活字を組み合わせるやり方の方が再利用という観点からは進んだ技術といえるが,あらかじめ用意しておく活字の種類が桁ちがいに多い漢字の場合,効率からだけでみれば,版木に直接文章を彫ることは,かならずしも悪い方法とは言えない。その証拠に,漢字の活字が誕生した後も木版は長い間廃れなかったのである。この現象は日本においてもみられているように,漢字の場合には版木による印刷がすぐれていることがわかる。

宋版の文字

ところで宋の木版印刷といっても文字の様式は同じではない。北宋の版では筆写の原稿をもとに彫っているために筆の味わいが残されている。しかし,それにしても楷書から楷書体への変化を意識しておく必要がある。前者は筆書の書体であり,後者は印刷用の書体と定義しておく。
南宋の版は北宋の印刷物の覆刻が主となり,もともと彫刻刀で彫られたものが手本になっていったために筆写の雰囲気は薄れ,「彫り」の特徴が顕著になっていく。この変化の流れが明朝体成立の根源にあることを見逃してはならない。つまり「複製の複製」が繰り返されることにより,筆の味が次第に希薄になるとともに彫刻刀の鋭い切れ味が濃厚になっていくのである。
しかし,北宋版を含めた木版印刷用の書体と筆書の書体とは,結構の面で本質的な違いがあることを知っておく必要がある。

「周礼」部分.JPG
左図は四川刊本『周礼』(孝宗期1163-1189)の影印である。行を区切る罫があり,その間の中心に文字が来るように,かつ罫にかからないようにしながらほぼ等ピッチで刻されている。 今述べた特徴は写経に通じるが,一般的な写経と異なるのは罫間に対する文字の大きさである。刊本の場合は文字を大きくしており,その結果,筆書としての楷書の書法からは大きく逸脱せざるを得ないことになる。 楷書では,偏旁は離し冠脚は詰めるのが原則であるが,等間隔で引かれた罫線間にできるだけ大きく文字を刻するということにすると,「偏旁を離す」ことにこだわってはいられなくなる。つまり空間の処理の仕方がまったく異なってしまうのである。
欧陽詢「使」.JPG
右の「使」は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」から採ったものであるが,「周礼」の文字との差が明らかであろう。 そこで,「偏旁・冠脚」というグループ単位の処理には目をつぶり,ストロークレベルで,できるだけアキを均等にとっていく努力を払うことになる。楷書→宋版→明朝体の変遷と明朝体の特徴の生成については,この方向から分析してみるのが正しい解釈につながると考えている。明朝体のルーツを欧陽詢や顔真卿に直接結びつけるのは誤った観念論でしかない。 もちろん,そうした中で発達していく起筆・収筆などの様式化も重要な視点ではあり,これは生産技術的要因を考えるべきであるとも思っている。

書価について

生産技術的要因と述べたが,要するに宋代から元,そして明に至って書物の需要が急速に増大したのであるが,その需要に応えるためには短期間に多くの版を生産する必要があった。そこで,最初のころはひとりの彫師が刻していたものを分業で処理するにいたり,それに応じて様式化が進んだのである。
この話は別途取り上げることとし,最後に「本の値段」について少し触れておきたい。いったい,版木で印刷していたころの本の値段はどのぐらいだったのであろうか。明代の坊刻本でさえも,奥付に価格を表示するなどということはほとんど行われなかったらしく,価格を知ることは簡単ではないのである。そもそも当時は,書物を金銭で取引するなどというのは書物に対する冒涜以外の何物でもないといった精神風土もあったらしい。
昨年の秋(2006.11)に平凡社から井上進著『書林の眺望』という本が出版されたが,そのなかに明代の新刊本書価について触れられていた。「明末における新刊本売価」という表(127ページ)が載っているが,おそらくこれを見ただけでは分からないかもしれない。同じ万暦年間でも1銭から3両までばらついているし,ページ数によって大きく異なるのも当然である。「百葉単価」も載っているのだが,これも万暦年間だけでも2分3厘から2銭2分までのバラツキがある。
そこで同書からこの内容の補説の一部を引用しておくことにする。

「明末」ではなく万暦中の一般坊本書価は,毎百葉五分から八分くらいが通例であったが,僧侶によって運営される南京僧録司という官庁より,ほぼ実費で頒布されていた『金陵梵刹志』になると二分三厘,つまりごくおおざっぱな推定をすれば,坊本は原価の二,三倍ほどで売り出されていたと考えられる。もとより万暦中でも,より高価な本はいくらもあって,たとえば松本市図蔵本『合刻管子韓非子』の場合は,「毎部定価白銀壱両」で毎百葉一銭一分となるのだが,これは本文の質もよければ版刻も比較的よく,またこの一本は白棉紙精印でもあって,見るからにそこらの坊本とは違っている。
それとこの本は堂々たる清議派官僚趙用賢の編で,まずその家刻本であるだろうが,そうした本が「定価」を明示しつつ,しかも印工から見て刊行後ほどなく,ということはなお万暦十年代,趙氏在世中かと思われる時期に出售されていたというのは,なかなかに興味深い事実であるだろう。またこれだけの本が毎百葉一銭一分というのは,廉価とまでは言わぬにせよ,むやみに高い値段では決してなく,むしろ経済合理性のある価格に設定されている,と考えられそうである。
(中略)
こうした手の込んだ本の書価が,一般のものに比して高くなるのは当然で,とりわけ印譜,法帖,図録の類になると,毎百葉四,五銭,はては一両以上などという,驚くべき値段になりもする。このような価格にどれほどの合理性があるのか,それはコスト,発行部数,実売部数が分からぬ以上,何とも言いにくいことではあるのだが,少なくともそれがまったく恣意的に決められるのではなく,需給などを勘案したうえで,ある相場の範囲内で定められる,というのは間違いあるまい。

とは言え,毎百葉二分三厘とか一銭一分といわれても当時の貨幣価値が分からなければ比較できない。同書によれば,万暦の米価は一石あたり五,六銭であったという。いまの米価は一石あたりに換算すると3万7,8千円程度(生産者価格)であろうが,あまり比較にならないかもしれない。明治期の本と比較してみると,たとえば二葉亭四迷『浮雲』が明治20年刊で上巻(166ページ)55銭,下巻(150ページ)50銭であるが,この年の一石あたり米価は3円65銭であった。またその前年に刊行された末松鉄腸『雪中梅』(日本で最初の政治小説)は上巻(136ページ)60銭,下巻(184ページ)60銭で,この年の一石あたり米価は約3円88銭であった。書籍の価格は今の感覚からすればかなり高いといえる。たぶん米価との比較で言えば,万暦のころの書籍はその2倍程度,つまり米一石と等価に近い価格だったようである。

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2006年12月22日

(7)宋代と文字

宋という時代と,その書芸

宋の時代をヨーロッパのルネサンスとそのまま対比することはできないかもしれないが相似点はいくつもある。ルネサンスはフランス語のRenaissance,すなわち再生(「再興」)から来ているが,内容的には古典の教養を土台にした新たな興隆という捉え方もできよう。その意味では宋も同様であった。
宋代は経済的にも潤沢な時代になり,文化に華が咲いた時期である。徽宗皇帝などはあまりに芸術にのめりこみすぎて国を滅ぼす元になってしまったほどであった。徽宗皇帝は政(まつりごと)は蔡京にまかせっきりで書画の世界に没頭した。自らの書風として確立した「痩金体」という独特の楷書を書き,また「桃鳩図」に代表される画も能くしたことはよく知られている。
宋で栄えたのは書画だけでなく,陶磁器で有名な景徳鎮もこの時代になって興隆したところである。文学もまた栄えた。しかも芸術だけではなく,技術の面にも活発な動きがみられた。ヨーロッパのルネサンスを代表する三大発明と呼ばれているものは,羅針盤,火薬,そして活版印刷術であるが,奇しくも中国での印刷術は宋に至って普及する。火薬や方位磁石の発明といった,まさに西欧ルネサンスと同様の科学技術の著しい発達がみられたのも宋代であった。
経済の潤沢は貿易によって齎されたのであるが,それによって裕福な商人が勃興し,古典の振興に寄与したといえるであろう。紙幣が流通しはじめたのも,この時代からである。
こうした時代にあって書画は単に古典を踏襲するということに留まらず,自由闊達な芸風を生み出したのであった。そういう時代背景抜きに,明朝体成立のベースとなった宋の木版印刷(宋版)を理解することはできないものと思う。

宋代の書

この時代を代表する書家は多いが,あえて挙げれば,やはり「宋の四大家」と呼ばれる蔡襄,蘇軾,黄庭堅,米芾(三大家という場合には蘇軾,黄庭堅,米芾)であろうが,その中から米芾の書について,少しみておくことにしよう。
米芾は幼いころから神童といってもよいほどに聡明で文才にも長け,画も能くした。書家としては,王羲之,欧陽詢,褚遂良,顔真卿などを学んだが,最後は古典の形式(とくに表面的な形)にはとらわれない書風を築き上げるのである。
次に掲げるのは米芾の代表作と言ってもよい『虹縣詩巻』の一部である(紙縫の半印は画像処理のために消してある)が,詩も彼の作である。虹縣に遊んだことを詩にし,それを書いたということから最晩年の作であろうといわれている。37行のうちの前半の13行は一行2字に大きく書いている。
虹縣詩巻の一部.JPG
「題」,「快」,「天」(ここには出ていないが「健」なども)の右ハライ,「霽」,「天」,(ここには出ていないが「碧」なども)の左ハライ,「淑」(ここには出ていないが「千」なども)の縦画収筆などののびやかさは独特である。これは古典の筆法からの開放を象徴するものとも言え,これは米芾自身の心境を表現したものでもあろう。
もちろん,この傾向は米芾だけのものではない。蘇軾も黄庭堅も,この見方からは同じである。宋の三大家に共通しているのは,古典を学び,それを尊重しつつも,形までも継承しようということはまったくなく,精神の発露としての表現を重用したことであろう。
こうした書の表現が顕在化したのが宋の時代だということができる。そして,その表現の幅が宋代の木版書体に投影したとしても不思議ではない。さらに,その延長が明朝体の誕生につながっていると見ている。
明朝体は楷書を様式化した印刷用書体だといわれるが,楷書という書の原理・評価基準を当てはめれば,必ずしも「よい書」とは認められないであろう。さまざま制約の中で楷書の精神はできるだけ生かしつつ,独自の様式を作り上げた。それが明朝体であったのではないであろうか。

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2006年12月10日

社会現象としての文字(6)

文字字形と筆記用具

文字の字形が筆記用具の種類に依存することは誰でもわかる。歴史的にもよく知られていることである。
シュメール人が粘土板に記した記号には,いくつかの形状の種類があるが,それぞれに適したヘラや,その他の棒状の先端などが用いられたであろう。楔形文字は粘土にヘラの先を押し当てて書いた。そこで「楔形」のエレメントとなったのである。しかしその後,金属板に刻されることになると楔エレメントの形状は微妙に異なったものになる。鏨のようなものが準備されたはずで,それによって大きさや形状の統一化が図られもしたと思われるものもある。
初期シュメール人の粘土板.jpgsp.JPGダレイオス黄金飾り板の一部.jpg
上図左は初期シュメール人の粘土板,右はダレイオス黄金飾り板の一部である(いずれもアンドルー・ロビンソン著 片山陽子訳『文字の期限と歴史』創元社 2006 より転載)。
南インド諸語,たとえばクメール文字やタイ文字,ビルマ文字などは,古くはバイラン(椰子の一種の葉)にスタイラスで刻し,その上から墨を入れて書いたが,ピリオドのような「点」は,単に穴が開いてしまうだけになるためしっかりした形状の記号が作られた。「リーフにスタイラス」という条件からは,当然,等線の文字となることも必定である。
バイランに書かれたクメール文字.JPGsp.JPGクメール文字.JPG
上図左はプノンペンのフランス極東学院で保存されているクメール文字が書かれたバイラン(筆者撮影),右は現在のクメール組版で最後にあるのがピリオドである。
また,マヤ文字のあの複雑な意匠は,筆記用のペンやインクが発達していたからこそ可能であった。
すでに論じたように,漢字も例外ではない。亀甲や獣骨にスタイラスで刻した文字は,そのまま周の文字として使用されたが,青銅器に「彫る」場合,厳密に言えばその鋳型すなわち柔らかな粘土に彫るわけであるから,甲骨文字の先鋭的形状表現は,なだらかな曲線表現に変わっていくのである。

石鼓文.JPG
しかし青銅器に鋳込まれる文字は,あくまでも記念碑文字としてであった。通常の用途に供される文字は別の書き方がされたと思わなければならない。それが何なのかの知見は持たないが,すでに着色のための染料は持っていたから,それを用いて木やその他の材料に「書いた」のであろう。ただし,当時の文字使用は,祭事や皇帝の記録などを除けば一般人が普通に使うものではなかったから,書かれたとしても,そう多くなかったはずである。
いずれにしても,こうして数百年の間に使用する地域も広まり,時代の推移とともに字形変化(バリアント)が生じていくのも宿命であった。おそらく,小篆体のベースになった大篆も木や竹に書いていたであろう文字のひとつである(大篆という名称は,それに続く小篆から逆につくられたらしい)。残念ながら大篆で書かれたものはあまり残っていないようであるし,それもほとんど石刻のみで,当時の一般的使用実態を垣間見ることは難しい。しかしいま残されている石鼓文の文字を見るかぎり,金文の味が比較的よく残されていると言える(上図は安国第三本宋拓の一部である)。

漢字における筆記用具と書体との関係

小篆体は等線である。藤枝晃によれば,その当時の筆は「ヒラ筆」であり,そのために等線の書になっているという。そしてその後,鹿豪の筆が発明されて隷書の筆法を可能にし,さらに兎豪竹管ができて楷書の出現に結びつくという。(『文字の文化史』)。つまり,筆の進化と篆書→隷書→楷書という流れが密接に関係しているというわけである。
隷書が使用されていた時代は,ほとんど木簡に書いた。そしてその木目に打ち克って力強い波磔をしっかり書くためには強く固い筆を必要とした。しかし,その後に紙が発明される。紙と兎豪竹管によって,はじめて楷書のデリケートな表現ができるようになったのである。デリケートな表現はまた遅速も自由にできることをも意味する。こうして楷書とはいっても,誤解を恐れずに言えば,ある意味で自由奔放な運筆バリエーションを生んでいったのである。
楷書は三世紀の半ばには出現していることが確認されているが,書聖と言われる王羲之が現在のスタイルを創出し,唐の能書家たちが完成させたという。欧陽詢,顔真卿,褚遂良などである。

張猛龍碑(一部).JPG
しかし一方,こうした書を生み出した南朝に対して,北朝ではまったく別の印象を持つ楷書がつくられた。北魏の書である(左図は北魏の張猛龍碑の一部。)。
この差を「北碑南帖」,すなわち南朝の書は紙と兎豪竹管による帖によって実現され,北朝の書は石碑に刻される文字として形づくられたといわれるが,藤枝晃によれば,「その相違の根本は実に材料--用筆の材質の相違に由来している」という。しかし榊莫山がつぎのように指摘しているのには説得力がある(『臨書のための書道名作撰集4 楷書篇Ⅱ』創元社 1966)。
下書きの毛筆の文字を,石工がノミで掘り起こす作業を通して,毛筆の性ともいえる柔の世界は抹殺され,剛の世界をえがきだしたといえよう。岩面に刻まれた文字は,切り立つようにして鋭く置かれてあるのも,じつは洞窟の空間を飾るにふさわしいフォームであったのだろう。

南朝の楷書は隋に至って「正式の書」として確立され,宋代の木版のベースになっていくのであるが,もちろん筆で書くのと彫刻刀で木に彫るのとでは,当然同一字形ではいられなかった。そして,その変化が明朝体を生むことになる。
しかし,明朝体の字形的特長を生み出す要素は,そう簡単なものではない。
まず北魏の楷書にもっと注目する必要がある。「張猛龍碑」が注目されはじめたのは19世紀に入ってからとされ,陽守敬(1839-1915)が「書法瀟々として枯淡,奇正相生じ,六代の多角唐人に出ずるゆえんのもの,ここを以ってなり,或は其の不佳なるをいうは真に俗眼也」と賞賛した(上條信山著『書道技法講座〔16〕楷書 張猛龍碑--北魏』二玄社 1972)のは,碑が建立されてから実に1300年もの後のことである。したがって,宋代においては北魏の碑はまだほとんど省みられなかったという。しかし,誰も指摘していないことではあるが,私の想像では北魏の書のバランス感覚が明朝体に影響を与えなかったとは言えないと思っている。この点については,あらためて論じる期会もあろう。

それはさておき,宋代に至って書画は旧来の習癖から開放され,革新的な表現が用いられるようになる。明朝体の前身である「宋体」は,こうした環境を念頭において考えるべきではないか。
次回は,明朝体の話に入る前の最後として,宋代の書について少し見ておくことにしたい。


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2006年12月03日

社会現象としての文字(5)

三井記念美術館で唐代の写経を見る

三井記念美術館で「敦煌経と中国仏教美術」特別展が開催されている(12月17日まで)。過日,この展示会に行って3時間ほど写経だけを見てきた。7世紀から8世紀初頭までの100年に満たない間に料紙に丁寧に書写された文字を具に見ていくと,非常に面白く興味が尽きなかった。こういうときには「やはり本物に接しなければわからない」との想いを強くする。
たとえば8世紀に書写されたと言われる『魔訶般若波羅密経巻第十九』では,「樹」の5~7画目が「キ」になっており,あまり見ない字形である。漢和辞典によって変わるが,ここは「土」か「士」になるところである。ちなみに常用漢字表例示字形は「士」である。
「當」の口一画目が田一画目を兼ねている(!)文字字形が使われている写経もかなりあった。「佛」の旁の「弓」が「コ+フ」のような字形のものも非常に多い。というより,展示されているもののほとんどが,この字形である(下図)。小篆体ではこの文字の「弓」部は1本の線で構成されており,上下は分離していないから,これは八分から行・楷書への変化の過程で,運筆上の理由から発生した字形であろう。
佛6種.JPG
供養の「供」の旁が「四画の草冠+一+ハ」になっている文字もある。「受」の「又」が「丈」の運筆のものも多い。まさに多種多様,異字形の宝庫にさえ見え,いつまででも見ていたい想いであった。
こうした字形の違いと書写された年代区分との相関はあまりない。並存しているのである。いつも指摘することであるが,とくに文字字形についてはどの時代にも緩やかな幅があり,それが生きている証でもあると言える。そのひとつの顕著な例を,この展示会で見ることができる。即天文字である。

敦煌経にみる則天文字

この展示会では則天文字が使われている経典が2種類出展されている。ひとつは『大般涅槃経巻第三十七』,そしてもうひとつは『大乗密厳経巻下』である(下図は『大乗密厳経巻下』の当該部の一部)。
則天文字例.JPG
武則天の治世は690年から705年までであるが,彼女が制定して「強引に」使用させた文字は19種あったという。これを則天文字という。
則天武后(武則天)が皇位に就くとさまざまな改革を行った。その中には善政と言ってもよいことがらも少なくなかったようであるが,自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し,仏教を振興したのはよいとして,自分の来歴を神格化して記録させ,さらに上述のようにたかだか19字とは言え,新しい字体を創作してしまったのである。
しかし権力を得た者が自分の足跡を後代にまで喧伝するために記録を作らせることは,古今東西ほとんど普遍的と言ってよいほど誰もが行っている。中国に限らず,功績を誇示した碑文や記録を残さなかった皇帝はいないのではないか。
そして,こうした記録はすべて文字によるものであるから,文字改革は自らの権力誇示のもっとも象徴的な行為と言ってもよい。想像に過ぎないが,即天文字もそうして制定されたものではないかと考える。則天武后の名は部照であるが,この「照」に対しても即天文字を制定しており,これは「明」冠に「空」脚という文字になっている。明るい空は太陽に照らされているからであるが,この「太陽」に則天武后は自分を重ねているであろうことは十分に想像できる。
則天武后亡き後,ある一定時期までは即天文字も使用されていたようであるが,しかしまもなくこれらの文字は完全に忘れ去られてしまったのである。まさにあだ花であった。さすがに15年もの間,使用を義務付けられれば,その文字が染付いてしまう世代もあったはずで,多少の「余韻」が生じるのはむしろ自然である。
現在確認されている則天文字は17種類,そして現代の私たちが今の時代に見ることができるのは水戸光圀の「圀」のみである(詳細に調べれば,その他にも人名等で使用される外字として存在するのかもしれない)。光圀という名前の文字は,たぶん即天文字だからという理由で選んだのではあるまい。「國」の異体字のひとつとして選定されたのであろう。

※ 上記の図は三井記念美術館刊『精選敦厚写経』収載の写真版から,その一部を切り出して転載させていただいた。

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2006年11月25日

社会現象としての文字(4)

甲骨文字から小篆,隷書へ

甲骨文字は殷で用いられ,その殷を滅ぼした周は被征服国の文字である甲骨文字をそのまま使用した。このことは必ずしも当たり前とはいえない。常識的には逆のはずである。
自国で文字を持っている国が他国を滅ぼした場合には被征服民に対して自国の文字を使わせるというのが普通であろう。周の場合は自らの文字を持たなかったために甲骨文字を「使わざるを得なかった」ということなのかもしれない。
こうして周は甲骨文字を用いて青銅器に鋳込み,その結果,記念碑文字として広がっていくと同時に,おそらくは一般の筆記文字としてのバリアントも豊富になっていったのであろう。前回に陜西省武功県出土の西周中期の銅器における「正体と俗体」の存在について裘錫圭の指摘を紹介したが,この事実は,こうした広がりを暗示するものと考えてよい。
こうして春秋戦国時代には,骨格の共通性を維持しつつも字形特徴の異なる書体が数多く出現することになる。そして秦の始皇帝が天下統一するころには形も発音もさまざまな文字が林立状態になるのである。
統一後の始皇帝の主要な事業のひとつが文字の統一であったことはよく知られているが,従来の文字ではなく,統一後の文字として新たに小篆と隷書を作ったとされ,それまでの秦では籀文(大篆)が用いられていたという。籀文も全国に広げるには不十分であったのであろうか。しかし文字統一の詳細は,かならずしも詳細にはわかっていないというのが実態である。

雲夢竹簡.jpg
いずれにしても,文字を制するものはすべてを制する。洋の東西を問わず,権威と権限の象徴が文字であったのである。則天武后(武則天)の則天文字は,もちろんそれを物語る一例と言えるであろうし,「康煕字典」にかける康熙帝の感覚も権威の象徴の具現化と無縁ではないようである。今日でさえ,ある意味では文字が権力の象徴として機能していると言えなくもない。
なお,小篆は記念碑文字として,隷書は一般の筆記文字としての役割を担ったと考えてよい。1975年に出土した有名な「雲夢竹簡」(右図)は蔵鋒・波磔(らしさ)など,隷書の特徴となる萌芽がすでに備わっている(断っておくが,私自身は現物を見たことはない)。しかも,この文字と同様の特徴を備えたものが,すでに戦国時代中期には用いられていたと考えられる。完全に他の既存文字からの影響を受けずにできるものなどはほとんどないと考えてよいのである。

小篆,隷書から楷書へ

小篆体.JPG

小篆も隷書も,ルーツをたどれば甲骨文字に行き着く。しかし甲骨文字は永い間忘れられてしまった。「説文解字」は,そんな中で編纂されたため,解釈には当然「抜け」があった。
小篆はどちらかと言えばスタティックな文字である。線の肥痩もなく筆順がどうなのかもわからない(篆書書道では標準的な筆順を決めているが,あくまでも便宜的なものである)。したがってムーブメントはまったく感じられない。ただ,固定化された図形としては非常に洗練されていると思う。記念碑文字としての風格を十分に兼ね備えているといえよう。
一方,隷書は線の肥痩が明確で,波磔に代表されるダイナミズムが顕著に認められる。もともと早書きの書としてつくられたためか,実用の書体としての性質を持っていた。そして,それによって漢代に引き継がれ,漢末に至って完成されたといってもよい。秦から漢に引き継がれた最大の理由は,いまでいう行政文書に用いられたからであろう。
柾目を縦に使う木簡に書くのに適した筆画形状として隷書という書体ができた,という解釈はたいへん合理的である。しかし,それならば木簡には他の書体では書けないかというと,そうでもない。つい数日前にも奈良西大寺の食堂院跡で平安時代中期の木簡が多数見つかったという新聞報道があったが,写真を見るかぎりでは行書または楷書のようであり,木簡には隷書しか書けないということはないことがわかる。たぶん筆の性質にも左右されるであろう。書体字形的特長の多くは,とくに筆記具の性質に大きく関係するものなのである。

波磔.jpg

隷書は程邈が事務の効率化のために発明した書体ともいわれるが,たったひとりの人間が社会で汎用的に使われる書体をつくるということは,ほとんど不可能と考えてよい。書体を使うのもつくるのも社会のあり方に関係する。
隷書ではじめて筆画が明確になり,完成された八分への進化と,早書き形から発した草書の萌芽としての章草まで,その変化も広範なものとなる(上図は波磔の例)。そして楷書の出現を迎えるのであるが,こうした変化の過程で運筆の多様化がもとの字形から次第に逸脱していき,楷書は書体として洗練されつつ規範書体の座を永らく持ち続けることになる。こうして唐代には楷書が標準書体の位置を獲得するのであるが,小篆の字形との整合性は次第に遠ざかり,省みられなくなっていく。しかしこれも社会に根付いていく証拠である。
「康煕字典」では,その楷書の標準的字形を無批判的に踏襲することなく,「説文解字」解釈を拠り所に編纂された。そして,その解釈を金科玉条として,その後の漢字解釈が進められ,また明朝体字形の拠り所として君臨することになり,それはいまでも日本の表外漢字字形の規範になっている。しかしそのこと自体,実は歴史の必然に逆行した側面もあったのではないか。。
次回以降に,そのことについてさらに検討していくことにしたい。

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2006年11月13日

社会現象としての文字(3)

甲骨文字の字形バリエーション

前回は「鳳」の文字のバリエーションを紹介した。次図はいずれも「龍」を表わす甲骨文字である。
甲骨文字龍のバリエーション.JPG
時代によって,あるいは書き手によって,あるいは状況によってさまざまに変化しているのであろう。ただ,これらの「筆法」の違いを構造的に説明できるだけの知識は持ち合わせていない。これらの差を今風の「字体差」と決め付けてよいのかどうかさえ定かではない。

鏡面対称の甲骨文字.jpg
次の図は同じ義を持つ甲骨文字であるが,ちょうど鏡面対象になっている文字の例である。これも今風に言えば異体字であるが,甲骨文字ではそうとも言えない。
前回にも述べたように,甲骨の種類や形状によって行の進行方向も変わるのであるが,鏡面対象文字の存在は,このこととまったく無縁とは思えない。意図は異なるものの,ヒエログリフの鏡面対象文字と同じレベルの差とも解釈できそうである。つまり,異体字・異字形というカテゴリーで論ずる性格のものではなく,単に「同一文字の反転形」と見たほうが妥当のように思われる。ある意味では文字字形に対してたいへん融通無碍な思想を持っていたとも言えるかもしれない。

金文の字形バリエーション

甲骨文字と金文には,実は考えられているほどの字形的差はない。形状の差は,筆記用具の差といってもよい。硬い亀甲や獣骨にスタイラスで彫り込んでいく甲骨文字は刻線がシャープだが,粘土で型を取って作る青銅器の銘文に用いられる金文と言われる文字は柔らか味が出てくるのは当然である。
さて,その金文であるが,以下の話は前回にも紹介した東方書店編『中国古文字と殷周文化』に収められている裘錫圭(チュウ・シークイ)氏の講演「殷周古代文字における正体と俗体」からのものである。
二つの青銅器の銘文に記された金文.JPG
上の二つの図を見ていただきたい。これらは陜西省武功県で出土した西周中期の銅器であるが,同一人がつくったもので,銘文の内容もまったく同一である。しかし文字のイメージはかなり異なる。書風も異なっているのはパッと見ただけでわかる。
はっきり言えば左の文字は端正で大きさなども揃っているが,右の文字は雑な感じで大きさもバラバラに見える。

金文ウカンムリ二種.jpg
図は,この中の「ウカンムリ」であるが,左は端正な方,右は雑な方の字形である。同時代に同一人が書いていながらふたつの字形が見られるということは,これらが並存していたということであり,裘錫圭によれば,これは正体と俗体の関係にあるという。その後の時代のものでは端正な銘文にも右の字形が用いられるようになったとのことで,初期のころの俗体が,後には正体の位置を占めるようになっている例といえる。
これは漢字の字形を考えるに当たって,たいへん示唆に富む現象と言えるであろう。なぜなら,この種の現象はいまにも通じているからである。


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2006年11月09日

社会現象としての文字(2)

まず,ヒエログリフから

時代とともに文字は増え,また変貌を遂げる。しかし文字は最初から単純なものではなかった。たぶん,どんな文字体系の文字でも言えることであろうと思われる。
そこで,まず古代エジプトのヒエログリフをみてみよう。ヒエログリフの詳細は略すが,一種の絵文字である。そこにはさまざまな動物の姿も文字になっているのであるが,よく見ると右に向いていたり左を向いていたりしている。そしてそれは同一の意味である。
ヒエログリフは原則として右から左に読むが,人や鳥などの絵文字がある場合,その頭部が向いている方が文頭になる,という規則があった。しかし,その文のそばに位の高い神の像が彫られている場合には,読む方向に関係なく頭はそちらに向いてしまう(ジョルジュ・ジャン著『文字の歴史』)。
ちなみにヒエログリフは左から右に読む場合もあれば,下から上に読む場合もあった。また,ブストロフェドン方式で読ませるものもあった。ブストロフェドンとは牛耕式と訳されるが,文字を右から左に書いていったら,次の行は左から右へ,というように交互に字詰方向が変わる方式である。
下図は河出書房新社刊『クリスチアヌ・デローシュ=ノブルクール著 小宮正弘訳『エジプト神話の図像学』2001よりルクソール神殿のヒエログリフ(ブルンナー・トラウトの素描による)である。左右対称の文字がいくつも確認できる。
ルクソール神殿のヒエログリフ.jpg
ところで,古代エジプトの彫刻においては神が中央に位置することが多いから,必然的に左右対称形の配置になる。ヨーロッパの建築から室内の装飾にいたるまで,左右対称の美学が今なお支配しているが,そのルーツはこのあたりにあるのではないかとひそかに思っている。
それは余談として,左右対称の字形を「同一」と判断することは,いわば常識であったということを強調しておきたい。文字同定の基礎と無関係ではないと思うからである。

甲骨文字の世界では

甲骨文字は漢字のルーツであることはよく知られているが,一般的にはかなり原始的かつ未成熟の文字体系と見られているようである。私は甲骨文字の専門家ではなく,たいした知識を持っているわけではないが,台湾でアドバイザをしていたころには甲骨文字の研究書をいくつか買い込んで勉強した。その感覚から言えば実際にはむしろ相当に完成された体系であったように感じられる。
次図は殷墟の大連抗というところから出土した亀甲大版である(東方書店編『中国古文字と殷周文化』1989より引用--本書は同名のシンポジウム講演録)。

亀甲大版.jpg
この亀甲には甲骨文字が刻されているが,この左右対称形の亀甲の右半分に刻された文字は内側から右に向けて書かれ,左半分に刻された文字は逆に右から左に向けて書かれている。つまり右縦書きと左縦書きが混在しているのである。
この左右対称性は,基材としての亀甲の左右対象性と関係している。ここに図示したパターン以外にも,いくつかの書写方向のパターンが存在し,ほぼ左右対称である。
ところが基材が左右対称形ではない獣骨になると,書写方向の左右対称性もなくなる。つまり甲骨の種類(というより形状)によって書写方向をコントロールしているのである。
こうしたこととの関係はよくわからないが,甲骨文字には左右対称の異体字(?)がかなりある。それだけではない。さまざまな異体字が用いられていたのである。
図は異体字の例である(朱歧祥著『甲骨学論叢』台湾学生書局刊より引用)が,偏旁・冠脚の入れ替え,要素の変形・欠落など,いまの漢字のと同様のバリエーションがすでに存在している。

甲骨文字の異体字例.jpg

鳳jpg
また,右図は「鳳」のバリエーションである(故宮叢刊編輯委員会編『龍在故宮』国立故宮博物院刊より引用)が,さすがにこれだけ複雑な字形になると,バリエーションも多くなる。「龍」なども多くの異体字・異字形が存在する。次回には,それらの字例を含めてもう少し補足するが,要するに甲骨文字の時代から義が同じで字形が異なる文字はごく普通に存在していたのである。こうした違いを「同一」と判断したり,逆に僅かな違いでも「別の意味を持つ文字」と解釈できる智恵が文字を使う人には備わっていたということである。これはたいへん重要なことである。一方で,いまの日本における漢字の常識から,この「智恵」が欠落し始めていると思う。危険なことである。

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2006年11月05日

社会現象としての文字(1)

時代とともに漢字は増える?!

手書き文字のユレについて,簡単な分析を行った。この中で,「文字は生き物であって,とくに筆写という行為そのものがダイナミズムである」という趣旨のことを述べたが,これは個人レベルの書写行為に留まるものではなく,社会現象として捉える必要があると思っている。漢字の形・音・義のすべてが,社会との何らかの関連から独立ではいられない存在なのである。
そこで今回から少し,この視点から検討をしていくことにしたい。
まず,いま問題にされるのは漢字増殖と字形の混乱にあるのではないかと思っているのであるが,これらは今にはじまったことではない。非常に古い時代から,(あたりまえのことであるが)文字は社会の流れの中で育ち,変化し続けてきたのであり,それに伴って必然的に漢字は増殖を続け,その使い方や表記にもさまざまな誤解や混乱が生じている。

そこで社会現象と文字との関係を考えるに当たって,今回は辞書における漢字数の変化に注目しておきたい。

本格的な漢字辞書としては許慎の『説文解字』が最初といわれている。収載字数9,353字,はじめて「部首」の考え方が採られた辞書でもあった。西暦100年ごろに,すでに1万字の漢字が一般に使われていたというのはすごいことのようにも思えるが,そのはるか昔,殷の時代に使われていた甲骨文字でさえ,いま確認できるものだけで4,000字を超えるのであるから,びっくりするほどのことではないとも言える。
その後の漢字辞書の収載字数の推移を見ると,

辞 書 名 制 作 年 代収 載 字 数備   考
玉 篇粱(543年)16,917字後にかなりの増補改訂がなされている
広 韻宋(1008年)26,194字206の発音(韻)に分類して収めている
洪武正韻明(1375年)32,254字『広韻』同様,韻によって分類
字 彙明(1615年)33,179字現在の214部首がはじめて採用された
正字通明(1680年)33,444字『字彙』を基につくったという。
康煕字典清(1716年)47,035字『大漢和辞典』のベースになった

こうして諸橋轍次著 大修館書店刊『大漢和辞典』(50,478字)につながるのであるが,時代が下るにしたがって収載字数が増加していることがわかる。いったい,この傾向は何を意味すのであろうか。
それを知るためには字種,正字・俗字・通用字などの比率を詳細に分析した数字を見ていく必要があるが,ざっくりした言い方をすれば,時代とともに書物も増え,また生活に浸透していく度合いが深まるにしたがって多様な用いられ方がなされるとともに,社会が変わっていけば新たな語彙や用法も新たに生まれることになり,結果として漢字の世界は膨張し続けることになるという現象に結びつくといえるのではないであろうか。
漢字に限らず,言語一般は使われているかぎり変貌を遂げる。これは宿命である。変化が止まったときには,その言語が死滅するときなのである。

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