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2008年07月08日

明朝体デザインの今後(6)

シカバネの形について,篆書→隷書→楷書→明朝体という変遷の中で,おのずから字形も変わっていくのに,たとえば隷書の筆法をそのまま明朝体に再現するような選択をしてはならないことを述べた。これに対して,々々さんからコメントをいただいたこともあり,少し補足しておきたい。

この種の明朝体字形は,実際にもかなり存在する。文字鏡フォントの「尸」を見ても,かなりの数が確認できる。第1図はその中のほんの一部の,「居」とこれを部分字形に持つ文字の例である。
これらは,ほとんど隷書や古い時代の楷書に引きずられた結果の字形であろうと考えたいところであるが,結論を出す前に諸橋『大漢和辞典』を見ておくことにする。ここでは「尸」が左上が開いている字形の俗字とされており,その根拠を『正字通』に求めている(第2図)。
このあたりに篆書字形を正字とする思想が垣間見られるように思われる。
篆書→隷書→楷書という変遷の過程で,多くの漢字字形は「説文解字」の小篆字形とは少なからず趣を異にしていった。かくして,楷書の完成時には小篆体とは大きく変貌を遂げたのだが,それこそがひとつの文字の歴史でもある。
したがって『干禄字書』が編纂された頃には,いまの楷書の字形が定着していた(第3図)。それを元に戻そうという動きの一つが『康煕字典』の編纂であったということもできる。したがって康煕字典を金科玉条としている日本においては『大漢和辞典』の解釈が根底に流れているといえるのかもしれない。
その顕著な解釈の例が三省堂『新明解漢和辞典』であり,シカバネを部首とするほとんどの文字に対して,親字としては掲げていないものの正字が左上が開いている字形であることを説いている(第4図)。ただ,他の代表的漢和辞典に,この字形を挙げているものはほとんどない。
しかし々々さんも指摘されているように,築地三号にみられるように左上が開いている字形のシカバネが活字において存在した。ところが,この間の問題を調べていて,戦前の文部省活字を見ると,シカバネは左上が開いている字形になっているのである(第5図)。一筋縄ではいかないことがよくわかる。
すべては『説文解字』の小篆字形と楷書の字形との乖離に対する解釈上の問題である。ただ,JISや戸籍・住基統一文字の中に(全字形の左上が開いているシカバネ以外は)ないのが,せめてもの幸いといってよいであろう。


【注記】 
この文章にケアレスミスがありました。「左上が開いている」としなければならないところ,「右が開いている」と誤記しました。ゆたんぽんさんからのご指摘で気がつき,当該部分を訂正しました。ゆたんぽんさん,ありがとうございました。(7月9日)

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2008年06月22日

明朝体デザインの今後(5)

前回は明朝体と楷書の構造差を意識することさえ難しいことを述べた。したがって他の書体になるとさらに混乱が助長される。
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上図は,そこに示された隷書の「居」が明朝体としてどの字形に該当するかという問題であるが,正解は上の「居」,すなわち常用字体でよいのである。そもそも隷書は小篆から派生した書体であり,小篆は下図のような形であった。

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前図の隷書の「居」は魏の王基残碑(二玄社『大書源』より引用)であるから当時の書風であり,そのころにはいまのシカバネの形は存在していなかったはずである(もちろん,構造がある時期を以って一気に変わるなどということはあり得ず,「いつのまにか」主流の字形が変化していくのであるから,まったくなかったとは断定できないのはもちろんである)。
したがって前図の隷書の「居」を明朝体で表現すれば常用漢字字形の「居」の形でよい。こういう判断をせずにバカ正直に同一字形にしようとするから「余分な」文字が増殖を続けることになるのである。
ちなみに明朝体の下の字形は,今回の説明のために作字したものであって実際に存在するものではないが,こういう類の文字は数え切れないほど存在することを指摘しておきたい。

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2008年06月19日

明朝体デザインの今後(4)

明朝体はひとつの書体様式である。書体様式と実際の字形はきわめて密接な関係がある。したがって他の書体で表現された文字を明朝体に置き換える場合,書体特性を勘案した形状変換が必要になる。
自分の氏名を正確に書く場合には楷書で書くように言われる。しかし表示の標準書体は明朝体である。したがって両者に一対一の対応関係が求められるのは当然である。

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たとえば「令子」さんが楷書で「令」を書けば上図の真ん中の字形になろう。小学校で教えられる文字であるから紛れはない。したがって,これを明朝体で表現した場合には右の字形になることも当然である。常用漢字であり,この字形が「常用漢字表」に示されているのであるから常識の範囲である。
ただ常用漢字表の(付)「字体についての解説」の2,「筆写の楷書では,いろいろな書き方があるもの」では明朝体風の字形も認めている。小学校では×になるはずだから,やや問題があることを指摘しておきたい。
それでは,同図左下の明朝体字形は楷書ではどう書かれるのであろうか。楷書とまったく同字形であるから真ん中の楷書の「令」に関連付けたいが,本当にそれでよいのであろうか。
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これと同様の事例として左図に示す「北」がある。本来は右の字形はあり得ない。なぜなら,この字形は楷書の字形と同一であり,この明朝体字形が左の字形に他ならないからである。
ここにも明朝体字形の混乱の典型的な一例がある。

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2008年05月27日

明朝体デザインの今後(3)

「今昔文字鏡」フォントは「いわゆる」高品質本文書体としての明朝体を志向しなかった(はずである)。そのことで,かえってリファレンスとしての役目を担い始めていると言えるのではないか。
しかし,やはり正しい構造表現を実現しながら本格的組版に使える明朝体が必要なのである。現在は非常に多くの明朝体フォントが利用できるのだが,それで十分ではないか,と思うのはそんなに多くの漢字をみていない人の感覚だろう。住基・戸籍統一文字で6万字以上,現時点でもっとも多くの字数を収録している漢字字典は約8万5千字,さらに今昔文字鏡では17万字もの漢字(ただし明朝体以外の書体の文字を含む)を擁する。世の中には常識では判断できないような字形の漢字がいくらでもあるのである。
見慣れない漢字の場合,現在の緩い明朝体様式では十分に構造を表現できないものも多い。複雑な漢字では総画数がわかっていてもなお,見掛け増画・減画などによって正しい構造を推測することができないものもあるし,総画数を推定できないものも少なくない。
その点を解決しようとしたのが中国・台湾の現在の宋体である。厳密に見ると中途半端な字形が存在するものの全体的には評価できる。その一例を図示する。
宋体の字形.jpg
図において,青い矢印部のラウンド形状が増画が見かけであることを明確に示しているが,この形状は従来の明朝体様式にはなかったものである。もちろん明朝体と宋体は別物だが,現実に今昔文字鏡フォントでも6画の「臣」が,このラウンドを持たせていることは前回の図でも明らかである。見慣れてくれば,そのうち違和感もなくなるかもしれない。
しかし,そこまでいかなくとも,たとえばゲタの出っ張りをある比率以上にはしないなどの工夫はもっとあってよいのではないかと思う。もちろん,見かけ増画をしなくとも文字としてのバランスが保てるような箇所(たとえば「巡」の部分字形“巛”)などはまともにデザインするようにすればよい。図の右の「匽」における“女”1画目は,明朝体“巛”の組合せとは逆だが,これも見かけ増画を排除した新たな構造表現形式である。
このような,ちょっとした規則をつくるだけでも,誤解釈は大きく減るはずで,そうしたことを含めた新しい明朝体様式を提唱するところがあってもよいと思う。
ちなみに現在の宋体字形の特徴は,完璧ではないものの康煕字典の呪縛から開放されていることである。楷書の伝統に近くなっていることは,なんともうらやましい(という言い方は正しくないかもしれない。要するに宋版--と言っても幅広いが--回帰なのであろう)。日本もそろそろ康煕字典を金科玉条とする風潮から脱することはできないものか。

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2008年05月18日

明朝体デザインの今後(2)

明朝体の様式踏襲と字形構造の正確な表現は両立するのであろうか。
それを考えるために,若干アンチテーゼのようであるが,まずGT明朝の字形を検証する。この書体の開発経緯と位置づけについては,とくに説明を要しないであろう。10年ほど前に,この書体開発にほんのわずかだが(間接的に)関わったので,個人的には思い出深いものがある。ただフォント・組版関係者からは不評だった。字形デザインに対する評価が主たるものであったが,結論的に言えば「明朝」という名称を用いたのは,よい選択ではなかったかもしれない。この書体のデザインは,重心が一定しなかったり,線質に未完成な部分が多いといった欠点もあるが,「明朝」という呼称を使わなければマイナス評価の声はもっと少なかったであろう。

GT明朝の字形.jpg
この書体の文字の一部を右に掲げる。一般の明朝体と違うのは,「見掛け画数表現」を排除したことである。漢字字形を,その漢字が持つ属性を踏まえて正しく表現しようとすれば,このような形を志向することは必然でもあるが,従来の明朝体様式にはそぐわないものがあることも事実である。
様式というのは,一種の「寄せ」である。いくつかある形のバリエーションを統一的なものに代表させ,または統一すべき新規の形をつくって,それに「寄せる」ことである。以前の,このブログでも「而」の中の縦画収筆部や「口」と「日」の形状表現を「寄せ」て同一形状にしている事例を紹介したが,これも様式に則ったものということができる(明朝体様式については2007年2月22日のこのBLOG『明朝体様式に要求されること』を参照していただきたい)。
図に示す「衣・頑・長・比」は,縦画から右上に跳ね上げる部分を見かけ2画とせず,明らかに1ストロークであることを明示している。この思想は中国・台湾の宋体字形と同じ思想と言ってよい。デザイン的には,折れ部にまったくアクセントをつけていないため,メリハリのない文字字形になっている。
「糸・災・法・如」にみられるハライ先からの転折も見かけ2画目の張り出しを抑えて誤解を防ごうとしているのはわかる。ただし,「糸」の1画目や「災」の冠部の“く”は,やや中途半端なデザインになっている。しかし部分字形“ム”の1画目は一旦筆を上げてから再び下ろすというムーブメントを持っているが,このようにもともと1画に数えるのか2画に数えるのかがあいまいなものについては,十分に「1画であること」を示したものとはなっていない。
なお,「如」における偏の“女”の2画目と3画目は(女偏則一般として)見かけ1画に表現されることが多いが,この書体では3画であることがわかる。
図の最後の行の文字は,ややわかりにくいものである。「亜」の真ん中の“口”左下の縦画収筆部と横画起筆部の接点をみると,縦画のゲタ(下への突き出し)がほとんどなく,転折部(1画)と見紛うが,実際には2画である。「印」の偏は4画であるから,縦画のゲタが長いのは当然である。それでは「山」はどうか。左下は転折部であるから不要なはずなのに長いゲタを履いている。しかも右下よりも長い下駄になっている。いずれにしても「亜」とは逆の処理がなされている。「臣」は,現在は7画とされるので,左下の処理は正しい。
このようにみてくると,せっかく旧来の明朝体様式を捨ててまで正しい構造を表現しようとしながら中途半端に終わっていることがわかる。
参考までに今昔文字鏡の字形を次に掲げる。
今昔文字鏡の字形.jpg

この書体は明朝体には違いないが,文書組版を前提としたものというより,構造的に正しい表現を目指したものである。この書体を,そういう見方でみないと正しい評価はできない。
ここで気になるのは「山」である。それでは本来はどのように処理すべきなのであろうか。隣の「臣」は7画のものだが,6画の旧字字形は次のようになっており,この(左下の)形状にするのが正しい処理である。
臣6画の字形.jpg
ところが,文字鏡フォントでは,この6画の「臣」字形は特殊であって,ちとえば「区」,「凶」など(これらは4画),すべてゲタを履いているのである。6画の「臣」字形は中国・台湾の宋体字形と同じであるが,画数の違いを表現するために特例として採用したのだろうか。どうせだから,これを標準にしてしまってもよかったとも思う。
ついでに宋体の字形を示す。
宋体の字形.jpg
臣,ハコガマエ,山の左下,衣の4画目に注目していただきたい。衣の4画目は普通の見掛け2画にみえるが,1画であることを示す工夫がなされている。
GT明朝と宋体のデザインに共通しているのは,従来の康煕字典体の呪縛から開放されているということである。新しい明朝体のあり方を考えるのであれば,まず康煕字典体から一歩踏み出さなければ何も始まらない。しかし現実には国語学者もフォントデザイナも,なかなか抜け出せないでいる。漢字書体史を紐解いてみればすぐにわかるように,長い歴史の中においては,むしろ康煕字典体の方が異質なのである。
康煕字典体を大事にしないと古典籍を正確に記述できないということが言われるが,とんでもない話で,「俗字」に格下げ(?)された字体の方が歴史上は正しいという文字はいくらでもある。「今日の譌字は明日の正字」の世界でもあるのが漢字の世界でもあるのだが……

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2008年04月30日

明朝体デザインの今後(1)

書体にはそれぞれの様式がある。それによって書体としての特徴が浮き彫りにされる。様式から逸脱したデザインは,アイキャッチャーとしては存在し得ても,正統的書体としては落第と言われかねない。
しかし,それにもかかわらず書体の分類は一意には定まらないことが多い。それだけ末広がりになっているとも言える。ただ,そうした中でも明朝体だけは別格だ。なぜなら明朝体は日本における規範書体だからである。ここで言う規範,すなわち則るべき規則とは,この文字はこの字形を正しいこととする,という宣言でもある。したがってあまりに自由闊達な表現がなされると規範書体とは言えなくなるのである。
明朝体のよいところは可読性に優れているということだが,しかしこれも絶対とは言えなくなった。紙に印刷する以外の用い方が多くなったからである。現今ディスプレイの表示用としては明朝体はかならずしも適していない。また,横組適正も優れているとは言い難い。他に新しい本文用書体が現れてもよいように思う。これがなかなか出てこないのは,明朝体にしがみついているデザイナーが多いからではないか。明朝体がしっかりデザインできるようになって一人前,という信仰がまだまだ存在している。しかも,それが古い活字デザインを志向しているのだから,現代の新しいメディアのことなど,あまり意に介さない風潮があってもおかしくないということだろう。
そうした中で,大日本印刷の秀英体開発室の「高精細ディスプレイ用文字フォントの開発」は注目に値する(『月刊ディスプレイ』2005.11)。ただ,このブログで再三強調している「文字の正確な構造表現」という点については,あまり力点が置かれていないように思われるのが残念だ。あくまでも可読性追求に徹しているからであろうか。しかし秀英明朝が漢和辞典の見出し字に使われていることを考えると,厳密な意味での規範書体特性を満足してもらいたいと思う。

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2008年04月15日

正しい漢字の表現(5)

最小線幅と最小線間の管理について考える。
壁に貼られたランドル氏環を見て行う視力検査は誰もが経験している。これは,5メートル離れたところから7.5ミリの環における1.5ミリの切り欠きを認識できれば視力1.0と定義される。
これをそのまま25センチ視力に変換すると,切り欠きの幅は簡単な計算で約0.07ミリになる。この数値は「視力1.0の人が二つのものを二つに分離して見える閾値」である。これは10ポイントサイズの明朝体の横線幅に近い。
文庫の本文は8ポイント,新書は9ポ,そしてワープロのデフォルトサイズは10.5ポ,10.5ポというのは五号に相当し,伝統的に行政文書の文字サイズに採用されていた。
このような実態からみれば,明朝体の横線幅という数値は重要な意味を持つ。この数値以下では見えない(線がトンデしまう)し,二つの線の間隔がこの数値より狭いと分離して見えないということである(これはあくまでも本文用書体について言えることである)。

【注】
明朝体の基本横線幅は,ウェイトによっても変わらないようにデザインするのが常道であって,その線幅は書体によって異なるものの,多くはほぼ2em,すなわちボディサイズの1/50程度に設定される。
書体デザインの基本仕様として,
  • 最小線幅
  • 最小線間
があるが,本文サイズで使用する書体は,このいずれも2emを基準に考えなければならないことがわかる。
ちなみに,実際に人が目にする文字は,印刷物の場合,その工程,とくにどんな版を使用するのかによって太まったり細まったりするので注意が必要である。トナーを用いる方式では太まる傾向があるので,品質上,最小線間の管理が重要になる。
こうした点の配慮を欠くと,せっかくデザイン上の意を尽くして文字の構造を正確に表現しても読者にはその工夫が伝わらず,結果として構造が曖昧な文字に見えてしまう可能性があり得る。だからこそ,書体(ウェイト)ごとに推奨文字サイズ範囲を明記するべきなのである。

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2008年03月31日

正しい漢字の表現(4)

さいきん,井上雅靖著『牙青聯話』(書籍工房早山刊)を読んだ。この中に「沛 水部四画」という章があるのだが,漢字字形を生業とする身には気になるところである。
「沛」はサンズイに市(一+巾の4画)だが,この旁は市場の「市」(シ)とは義も違う。しかしいかにも紛らわしい。私も2月の講演で,たまたまこの文字を取り上げたばかりである。
井上氏は「沛」の意味からはじめて,この「紛らわしい」問題に入っていく。氏は4画の市(ハイ)と5画の市(シ)について,

この《市》の字と前述の「市」の字は、その成り立ち、意味もまったく異なる別の字である。しかし、現在手にすることのできる一般的な辞書では、この二字は区別されていない。実に不思議なことと言わざるをえない。

と書いている。一般的な辞書が国語辞典なのか漢和辞典なのかはわからないが,漢和辞典であれば,義も画数も違うのであるから同一視するということはありえない。あえて言えば,字形が区別されないということではないかと想像する。
さらに話は「柿」,すなわちカキとコケラへと続くのだが,これも混同されていた歴史を,大槻文彦の『大言海』から「こけら葺きヲかきぶきトモ云フハ、果ノかきの字ト見誤リテ読ムナリ」との記述を引用して説いている。おそらくは,この「見誤り」というのも字形の差が表現できていない現実を反映したものであったのだろう。
カキとコケラの字形に関してはこのブログでも「墨溜りの効用(1)」で取り上げたが,たったひとつの墨溜りの有無で,この文字の差も明確に表現できる。このあたりを軽視すると「区別されていない」と言われることになるわけだ。こういった細部に対する注意を心がけていないと,「肺」のようにハイでありながら5画の市の文字が正しいなどいうことになってしまうのである。
このブログでずっと強調し続けてきたことであるが,こうした点に拘ることこそが,真のユニバーサルデザイン,すなわち「正確な構造表現」の実現につながるものと信じている。

ちなみに『篆隷大字典』で「沛」を見ると,清代の書家,金農の書に旁を5画に書いたものが認められる。著名な書家でもシとハイを混同しているわけだ。草書などでは同じ運筆になるのだから,こうした混同も当然なのかもしれないが,だからこそ,とくに基準書体である明朝体には「たしかな構造表現」が求められるのである。(この段落は4月1日追記)

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2008年03月26日

正しい漢字の表現(3)

前回,明朝体デザインの構造を概観する図を示した。そこでまず重要な要件が「正確な構造表現」であることを述べたが,これらについて,もう少し掘り下げて考えていきたい。
図の右側に「環境条件」という機能項目を記した。今回は正確な構造表現とは何かを環境条件からみていくことにする。
環境条件とは何か。たくさんあるのだが,今回はフォントデザインと使用文字サイズについて検討する。現在のフォント環境は,理論的にはどんな文字サイズでも実現できる。しかし極小から極大まで利用可能な文字のデザインなど存在しない。かならず最適範囲というものがあるはずである。それにも関わらず,不思議なことに使用推奨サイズを明記したフォントは,ほとんどないのである。使用者の責任で判断せよ,と言いたいのかもしれないが,「こういうコンセプトでデザインし,どのぐらいの文字サイズに適している」といった程度のことはデザイナとしての最低限の開示義務に当たるのではないか。

「じょうずなワニのつかまえ方」.jpg
もちろん,フォントと文字サイズとの関係は単純ではない。表示メディアによっても異なるから,一般則としてではなくユースケースとしてでもかまわない。いずれにしても何らかの指針があってよい。フォントに関するユニバーサルデザインのもっとも基本的な視点が,ここにあるものと思う。
主婦の友社から『じょうずなワニのつかまえ方』という面白い本が出たのは1986年であったが,刊行直後からフォントの関係者の間で話題になった。内容によってではなく,本文が,あたかも書体見本帳のように多彩な書体を使って組まれており,しかも書体名まで表示されていたからである。
しかし,である。その組版の可読性が極めて悪いものが多いのである。編集者が書体の使い方もわからずに制作したのではもちろんなく,何らかの意図に基づいて組んだのであろうことは想像に難くない。しかし,このような書体の使い方と組み方をした真の理由は存じていない。
使用している紙質があまよくないので,細明朝体でも8Qぐらいの文字サイズでは読みづらいし,大サイズで広告のキャッチコピーに使うような書体を本文に使って,完全につぶれてしまっている組版もある。
以下に3点ほどを掲げるが,「読みにくさの見本」のようである。仮名漢字混じり文の場合,漢字を少し大きくしたり黒味を強くすることで可読性を高めることができる。もっとも簡単な方法は,漢字にゴシック体を用い,仮名に明朝体を使用することであるが,ここに掲げた組版は,漢字を細明朝,仮名をゴシックで組んでいたり(「救命帯をつける方法」),漢字に使用したゴシック系書体も特太の装飾書体を使ったために,かえって読みにくくしてしまっている(「石を磨く方法」)。仮名書体に特太のアウトライン書体を使っているものも,可読性(視認性ではない)の確保という観点からはマイナスである(「卵の立て方」)。
救命帯をつける方法

石を磨く方法.jpg

卵の立て方.jpg

苦労して読ませることで印象を強める,というテクニックもあるから一概には言えないが,まっとうな使い方でないことだけはたしかである。この『じょうずなワニのつかまえ方』を失礼ながら反面教師としてみることで,最適(または推奨)文字サイズとは何かを学ぶことができる。
書体設計上の基本仕様の一つが字面率であるが,これをどのぐらいの数値にするかは,どの範囲の文字サイズで使用するかで変わってくる。仮想ボディと字面の隙間は,いわば額縁の幅だと思っていただければよい。この幅は使用サイズに比例して実寸が大きくなるから,同じ字面率の書体でも大サイズで使用すればベタ組みでもパラついて見えるので大サイズで用いる書体の字面率は大きく(つまり額縁の幅を細く)設計するわけである。
こうしたことからも,書体ごとに最適(推奨)文字サイズというものが存在すると断言できる。

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2008年03月23日

正しい漢字の表現(2)

明朝体デザインの構造を三階層に分けて考えたい。
ベースが「正確な字形構造表現」,その上にたって「可読性・視認性の確保」,そして最後に「美的バランスの追求」である。それを説明するための簡単な図を下に示す。
明朝体デザインの構造.jpg
美しいことは良いことだ。しかしそれだけでは文字としての価値はない。正しい伝え方ができなければ何にもならない。とくに漢字は意味が通ればよいというものではないだけに「伝えるもの」が何なのかをしっかり認識しておかねばならない。字体が違えば伝わり方が違うということは「ツチヨシ」か「サムライヨシ」か,部分字形「カタナ」か「チカラ」か,などの例を挙げれば理解できよう。
しかし「正確な字形構造表現」は,そのようなレベルに留まらない。たとえば画数などの属性をどのように表現するかも大切な要素である。どんな字形要素がどのように配置されているのかも明確に表現できていなければならない。むしろそのような属性の正確な表現によって字体が確定すると言っても過言ではない。
しかしそこに立ちはだかるのが明朝体様式という表現の制約である。画数に関しても「見かけ画数」という表現様式があり,どんなに気を使っても完璧な表現は不可能である。そうした制約の中で,できるかぎりの正確なデザインを心がけるのが文字デザイナに課せられた責任であるが,それに対して必ずしも意を用いず,単にグラフィックデザインとしての完成度だけを追求しているデザイナが多い。日本の文字デザインに対する大きな課題である。
いずれにせよ「正確な字形構造表現」を棚上げして,単に「美しさ」を求めるのは砂上の楼閣をつくるに等しい。なぜなら,それは土台のない家を立派な内装で恰好だけつけることに近いからである。

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2008年03月18日

正しい漢字の表現(1)

「表外漢字字体表」の解析から,漢字のデザイン差とは何か,というレベルのことでさえ大きな誤解が巷に横行していることがはっきりした。字形の面から漢字の「あるべき姿」を追求する姿勢は意外に疎かにされており,その結果,無駄な漢字が「創造」される一方で,漢字本来の字形構造をまともに表現できていない文字もまた多いのが現実だ。
文字のキレイさだけを追求する風潮が,真に必要な漢字デザイン問題を曖昧なものにしている実態も無視できない。そういう意味で,文字における真のユニバーサルデザインとは何かを問うてみることは無駄ではない。
今月2日の朝日新聞日曜版“be on Sunday”の『日曜ナント カ学』はユニバーサルデザインフォントの開発状況を中心としたフォントデザインの新しい潮流に関する特集を組んだ(なおバックナンバーは3ヶ月間のみ閲覧可能となっており,6月以降はこのサイトは表示されないはずである。いずれにしても閲覧には同社の“asPara”への事前登録が必要)。時宜を得た企画であったと思う。
携帯電話の画面で文字の読みやすさを追求する事例などが紹介されていたが,実は,この「もう一つの話」に私の主張も紹介されている。その部分だけを引用させていただく。

書体へのこだわりの背景には、外国産の日本語書体が増えていることもある。その是非を判断する当の日本人の理解力が乏しくなっている。
タイポグラファーの長村玄さんは「文字は社会インフラ(資本)」が持論だ。デザイナー向けの講演などで、画数や書き順など基本をふまえてデザインをするように訴えている。
例えば「走」の縦棒を同じ太さで一直線に描くようなデザイン。書き順としては「土」を書いてから下を書くのだから、「明朝体では、上と下の縦画を区別する起筆部分をつけてほしい」。ちょっとした不確かな「字形(文字の設計)」の表現が文字を変質させ、誤字が増殖していった例もあるという。長村さんは「文字情報が正しく伝わるように表現するのがデザインの基本」と語る。

この第一段の意味は,もう少し補足説明をしておいた方がよいかもしれない。他の商品と同様,文字の世界においても「外国製」が増えているのだが,それを無思想に否定する向きもある。しかし「外国製だから悪い」と考えるのは短絡的だ。真の評価眼を持たない者ほどその傾向が強いように思えるが,これも文字に限ったことではない。
「外国産」の書体の多くは,デリケートな線質に対するコダワリを持ってはいない。文字ごとの濃度,すなわち黒味についてもそんなに神経質ではない。個々の文字の大きさについても比較的鷹揚である。そういったことが日本のデザイナにはかなり気になるらしい。しかし文字を表現する最大のポイント,すなわち「キモ」は何かをわかっていないのは,むしろ外国産を否定してかかる日本人自身にあるのではないのか。
第一段に込めた意味は,まさにここにある。
中国・台湾の字形は,日本人にとってはあまり評判はよろしくない。しかし,その漢字が何画なのか,どんな運筆が想定されているのかといった情報が,そこにはある。残念ながら日本の明朝体様式には,そのような属性を正確に付与する仕掛けは持っていない。だからこそ与えられた様式の中で最大の工夫をすることが要求されるのだが,それに応える明朝体はなかなか出現しない。明朝体デザインとして「頑張る場所」が,ちょっと違っているのではないか。

このブログは,100回ぐらいの連載で自分の考えていることを公開しようとしてスタートした。今回は88回目であるから,そろそろ「まとめ」を意識する時期に来たようである。そこで「明朝体デザインにとってのもっとも重要なキモとは何か」をまとめ,それを,このブログの結論としたいと思う。それが「正しい漢字の表現」である。具体的には次回から。

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