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2008年08月03日 …【まとめ】

まとめ(2)-最終章

明朝体を中心とした考現学的な話題や問題提起をテーマとして,とりあえず100回ぐらいまでは続けようという「適当な」目標を立ててスタートしたこのブログも,ついに(!)100回を迎えた。当初の予定にしたがって,今回を以って一応の幕を閉じることにしたい。
もとより内容や構成に関してしっかりした計画を立てて臨んだわけではなく,常々疑問に思っていること,その時々に感じたこと,または時事的な話題を書いてきただけである。したがって全体を読み直してみても,何の統一も脈絡もなく,通して読んでいただくと,たぶん,かなり支離滅裂な感じを受けられるかもしれないし,かならずしも重要なことを優先的に記してきたとも言えない。
そういう意味では,まだまだ書きたいこともあるので,また別のブログを立ち上げて論じていきたい。とくに,「これだけは主張しておきたい」と思っていることが十分に論じ切れなかったという思いを強く持っているからである。具体的に言えば,字体問題と文字デザイン領域の区別が,とくに文字行政に関わる国語学者に正しく理解されずにあいまいさを残したまま(しっかりした線引きもなされないまま),規範としての例字字形が行政に持ち込まれ世の中を混乱させているという現実を,もっと糾弾していかねばならない。
そのことに若干関係することだが,文字のデザインの許容範囲について,最後のまとめとして簡単に述べておきたい。

クルマをまっすぐに走らせるためのポイントは何であろうか。もちろん,いくつもの要素があるが,ここで指摘しておきたいのはステアリングの「遊び」である。ステアリングとタイヤの動きが完全に一致していたとしたら,まっすぐ走らせることはできない。わずかな手のブレがそのままタイヤに伝達され,そのブレを補正しようとしても,反応のちょっとした遅れがタイヤのブレを拡大することになってしまうことにつながるからだ。遊びがあることによってスムーズに車を走らせることができるというのも,当然といえば当然,不思議といえば不思議である。
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同様のことが時計にも言える。私が常用する腕時計は電波時計ではないが年差は2秒弱,すでに3年を経過したが,時刻合わせなど一度も行っていないにもかかわらず5秒ほどの誤差でしかない。おそらく,クォーツ腕時計のメカとしては世界最高レベルではないかと思っている(ちなみにスペック上は年差10秒以下,となっている)。
それでは,これだけの精度を実現するためには,たとえば各歯車の寸法誤差を極限までに少なくし,誤差ゼロにすべきなのであろうか。これもよく知られるように,誤差ゼロの歯車の組み合わせでは回転そのものが不可能になってしまう。これでは時計として機能しない。ここにも遊びが必要なのだ。
文字についてはどうであろうか。
よく「出る・出ない」,「付く・離れる」,「長い・短い」,「払う・押さえる」,「ハネル・ハネない」などが問題視される。もちろん「由・甲・申・田」の“出る・出ない”,「未・末」の“長い・短い”,「于・干」の“ハネル・ハネない”のように字種が変わってしまうものもある重要な字形要素になる場合もあるが,そのことによって字体までもが変わることにはならないケースの方が圧倒的に多い。しかしそれにもかかわらず,そのレベルを針小棒大に解釈する風潮が後を絶たないのである。しかも,『表外漢字字体表』(印刷標準字体)では画数違いまで「デザイン差」とする一方で,「付く・離れる」レベルを問題視し,本来の平成明朝体デザインを変えてしまっている。それはデザイン統一というレベルではないし,デザイン統一をするとしても,文字行政が音頭を取る性質のものではない。
しかも結果としては『表外漢字字体表』の字形はデザイン統一されているとはいえない。中途半端なのだ。「辰」3画目横画起筆部を,冠脚に使われる場合は雁垂れから離し,偏旁に来る場合には付けるという「統一」にこだわりながら,部分字形「見」のヒトアシ1画目起筆が上に付くか付かないかなどはまったく気にしていない。
『表外漢字字体表』の問題については,このブログでも“表外漢字字体表の「字形問題」”として11回にわたり論じたが,その中でも,デザインの不統一については,同じ部分字形「執」を持つ文字,摯と贄にデザイン不統一があること,及びその理由について具体的に指摘した。
さらに表外漢字字体表では八屋根は許し,筆押さえは排除した。八屋根と筆押さえは明朝体様式を代表する修飾であるだけでなく,これらの思想背景も同一なのであるから,一方を採り一方を排除するということ自体に矛盾がある。この修飾の有無を新字・旧字の差とする辞典解釈もあるが,いずれにせよ根は同じものだ。これについても,このブログですでに指摘したとおりである。
こうした点を含めて総合的に判断すれば,いかに文字の専門家が漢字の明朝体デザインに関する知見に乏しいかを窺い知ることができる。しかも,それに対するデザイナ側からの問題提起がほとんどないということも気になるところだ。
話が拡散してしまった。元に戻すと,文字は「読み書きする道具」だが,書く場合には運筆というダイナミズムを無視できない。一方,読むという行為に関しては,眼の動きや図形としての認識,さらには文章としての読み解きというダイナミズムに支配されていることを忘れてはならない。読み書きのどちらにおいても,字形をスタティックに捉えるだけでは真の解は得られないのである。そして,それを語るためのキーワードがデザインの「遊び」なのだ。ここでいう遊びとは,よい意味での「ユレ」であり,デザインの恣意性である。
文字は万人の共通認識の対象になる基盤であるから,勝手気ままなデフォルメは(少なくとも明朝体においては)許されない。しかし,そのシバリの中でいかにデザインとして品位が高く,可読性も優れた書体設計をするかがデザイナに求められている。そういう観点から,ある程度のデザイナとしての恣意性が担保されなければならない。それすらも殺してしまうようなシバリは有害無益以外の何者でもないが,その常識が破綻しつつあるとはいえないのであろうか。
この100回の中で,多くの寄り道をしながらも,もっとも訴えたかったことはこのことであった。今後は各領域の専門家による良識ある検証を心から期待して,このブログを終わらせていただく。

【付記-あとがきに代えて】
このブログの計画時には内容的にかなり特殊なのものと思っていて,少数の限られた方の参考に供させていただく程度に考えていました。それにしては,延べで10万人以上の方々が訪ねて来てくださったのですから本人もびっくりしています。これを立ち上げた甲斐もあったものと,改めて感じている次第です。
アクセスログを解析すると,定期的に訪問してくださる方も多いようでした。当然,一見のお客様もたくさん来られ,その多くはポータルサイトからのルートでしたが,そのときの検索キーワードについても,たいへん面白い視点のものがあり,参考になりました。
もちろん個人が特定できるわけではなく,IPアドレスとマシン環境がわかる程度ですが,どのようなところに興味を持たれているのかも想像でき,キーをたたく手に力が入ったこともたびたびありました。そういう積み重ねがあったからこそ今まで続けられたのであろうと思います。まことにありがとうございました。また,批判・批評を含めてコメントをお寄せいただいた方々にも心より感謝いたします。

posted by gen : 2008年08月03日 17:34

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