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2007年04月01日
…【明朝体の様式】
敝の画数について
つぎの文字をみていたただきたい。
つぎの二つの文字は,それぞれの縦画起筆に,いわゆる「墨溜り」と称する瘤を付けたか付けないかだけの差であるが,この僅かな差で画数の誤認は防げる。まさに「たかが墨溜り,されど墨溜り」なのである。
しかしわかりにくさはそれだけではない。「敝」は12画(すなわち,この文字の偏は8画)なのに,これが部分字形になる文字で,敝を11画(偏を7画)に数えるものもあるのである。次は『大漢和辞典』から採ったものであるが,「敝」を部分字形として持ち,しかも音も同様に「ヘイ」と読むにも関わらず11画に数えるものである。検字番号25089の旁は7画に数えよ,という。
posted by gen : 2007年04月01日 13:08
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Comments
「敝」の左旁は7画に数えるべきではないでしょうか。
この字は「巾」部に属し、[巾]+[ハ]+「ハ」から成るものであることは明らかです。
これを8画に数えるのは、順序が逆のようですが、「敝」の画数を先に決定した結果、単字の字源への考察がなおざりにされたもののように見えます。
「攴/攵」部8画に「敞」があります。
『康熙字典』の編纂者が、「敞」の左旁下の[口]を[小] (ハネは無し) に置き換えたものが「敝」だと誤認したのが原因ではないでしょうか。
そのため総画数12画、左旁を8画に数えることになったわけですが、[巾]+[ハ]+「ハ」の字を巾部5画とする数え方には無理があります。
[巾]の縦画を2画に分割する謂れがありません。
“墨溜り”の無いのを正字とすべきであろうと思います。
posted by hiro : 2007年04月06日 00:52
ご指摘・ご意見をありがとうございました。
「敝」などの漢和辞典における画数問題は,別途「リファレンスとしての漢和辞典」(仮称です)というカテゴリーで私見を述べる予定ですので,そこで詳述させていただきたいと考えています。しかし,すくなくとも敝の偏については,もともとはご指摘のように7画が正しいのではないかと思います。
『干禄字書』には「弊」,「鼈」が載っており,正字はソ+巾+ハですから7画で運筆していることが明らかです。ついでに言えば,『干禄字書』における弊の俗字は,この部分字形が「敞」になっており,ここでは小⇔口という置換が行なわれているとも考えられます。
ご指摘の内容とはずれますが,これは小+冂+小の最後の小が置換されたとみることも可能です。したがって,楷書出現のかなり初期のころから8画の筆法が通行していたのではないかという推測を可能にするものです(『大書源』の影印をみても,この部分字形を持つ文字の多くは,王羲之をはじめ,この部分を8画で書くほうが圧倒的と言ってもよいほど多いことも推定材料になります)。他の卑近な例では,幣の幤が俗字とされています。
また,独自の字形学的考証をもとにつくられた「文字鏡フォント」では,リファレンスして『康煕字典』,『大漢和辞典』を挙げていますが,画数は7画に数え,グリフも縦画は中央を貫く1本で表現されています。
いずれにせよ,漢字辞典に「画数」を採用したのは『字彙』からと理解していますが,おそらく,そこでの決め方には多分に恣意的な要素も介入していたのではないかと,勝手に想像しています。
ところで,漢和辞典の位置づけについて考えておく必要があります。
法務省では,氏または名に用いる漢字について,ひとつの明確な基準を設けており,正字,俗字,誤字等の分類は,具体的には四大・漢和辞典,すなわち『大漢和辞典』,『大字源』,『新大字典』,『大漢語林』の解釈に沿っています。つまり,これら漢和辞典の解釈を公式のものとして採択しているわけです。属性についてもこれらの「解釈」を継承します。
したがって,ほんとうは7画であったとしても,これら漢和辞典がすべて8画としていると,「8画が正しい」ということになります。
したがって,現在の漢和辞典を漢字解釈(とくに属性)のよりどころとする限り,「敝の偏は8画」ということになってしまいます。そして,それを肯定するのであれば8画ということがわかる字形とすべきであろうというのが,ここでの趣旨でした。
以上,簡単ですが補足です。
posted by GEN : 2007年04月07日 18:22
小生のような知識としても技術としても未熟者の意見を申しあがるのは大変厚かましくも思いますが、
この字を見たときになんとも相容れない違和感を感じましたので、率直な感想を書かせて頂きます。
運筆で言うとこれは8画にしか考えられません。
7画でも書こうと思えば書けなくはありませんが、違和感を感じます。
始めに筆理ありき、後に知識が補完されたと考えるのは自然なことと感じますが、その知識が時代時代に体系化される過程において、分類上致し方なくなってしまった不条理の可能性は否めないと思います。往々にして全ての理屈は後からつけられますし。
posted by 也太奇 : 2007年04月08日 13:45
也太寄さま,ご意見をありがとうございました。
書をやっておられる方の多くは8画で書かれるであろうことは疑い得ません。行書では縦線を一本で書く筆法も取られますが,楷書では8画で書くのが自然と感じられるものと思います。
言語(言葉も文字も)は本質的に「変化するもの」です。字義などの解釈は説文などに典拠を求めますが,それだけにこだわるべきではなく,永い歴史の中で新しい書体も生まれ,筆記具も変わり,教育や理解の仕方も変わっていけば,当然字形構造も変化していくのが文字が「生きている」証拠でもあります。そういう眼で漢字を見ていく必要もあるのではないかとつねづね考えています。
異体字学の泰斗,杉本つとむ先生も「昨日の誤字が今日の正字」という趣旨のことを言われていたように記憶しています。
posted by GEN : 2007年04月08日 23:12