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2007年01月10日 …【社会現象としての文字】

(8)宋版について

宋版の誕生

石碑から拓本を採る技術は古くから行われていた。唐末には政治も不安定さを増し,外面的な取り繕いを目的として石経を彫ることが計画されたが,正しく内容を伝えるだけならば,石に彫るより木に彫るほうが効率はよい。当時にはすでに木版印刷術が知られていたから,版木を彫って紙に印刷すれば石経で世に伝えるよりもずっと簡単に済むと考えたのである。こうして木版印刷が広がっていくことになる。
当時,もっとも物資が豊かであった四川(蜀)が印刷の中心地であったという。ここを征服した宋の太祖は,ここで一切経を印刷することを命じる。この地の品質はもっとも優れていたようであるが,北宋末期には文化的な中心であった杭州の印刷に蜀本を凌ぐ質の高い本が多くなったという。
11世紀の宋代には,俗に「宋版」と呼ばれる木版印刷が多く出回るようになった。中央官庁からは多くの書物が刊行され,これを「官版」または「官本」と呼んでいる。科挙制度の整備と印刷術の成立・進展はほぼ同時並行的に行われたようである。
グーテンベルクの印刷が1字ずつの活字を組み合わせて版をつくるのに対して,宋の木版印刷は刷る紙の大きさの領域全部を木版でつくるというちがいがある。当然,1字ずつの活字を組み合わせるやり方の方が再利用という観点からは進んだ技術といえるが,あらかじめ用意しておく活字の種類が桁ちがいに多い漢字の場合,効率からだけでみれば,版木に直接文章を彫ることは,かならずしも悪い方法とは言えない。その証拠に,漢字の活字が誕生した後も木版は長い間廃れなかったのである。この現象は日本においてもみられているように,漢字の場合には版木による印刷がすぐれていることがわかる。

宋版の文字

ところで宋の木版印刷といっても文字の様式は同じではない。北宋の版では筆写の原稿をもとに彫っているために筆の味わいが残されている。しかし,それにしても楷書から楷書体への変化を意識しておく必要がある。前者は筆書の書体であり,後者は印刷用の書体と定義しておく。
南宋の版は北宋の印刷物の覆刻が主となり,もともと彫刻刀で彫られたものが手本になっていったために筆写の雰囲気は薄れ,「彫り」の特徴が顕著になっていく。この変化の流れが明朝体成立の根源にあることを見逃してはならない。つまり「複製の複製」が繰り返されることにより,筆の味が次第に希薄になるとともに彫刻刀の鋭い切れ味が濃厚になっていくのである。
しかし,北宋版を含めた木版印刷用の書体と筆書の書体とは,結構の面で本質的な違いがあることを知っておく必要がある。

「周礼」部分.JPG
左図は四川刊本『周礼』(孝宗期1163-1189)の影印である。行を区切る罫があり,その間の中心に文字が来るように,かつ罫にかからないようにしながらほぼ等ピッチで刻されている。 今述べた特徴は写経に通じるが,一般的な写経と異なるのは罫間に対する文字の大きさである。刊本の場合は文字を大きくしており,その結果,筆書としての楷書の書法からは大きく逸脱せざるを得ないことになる。 楷書では,偏旁は離し冠脚は詰めるのが原則であるが,等間隔で引かれた罫線間にできるだけ大きく文字を刻するということにすると,「偏旁を離す」ことにこだわってはいられなくなる。つまり空間の処理の仕方がまったく異なってしまうのである。
欧陽詢「使」.JPG
右の「使」は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」から採ったものであるが,「周礼」の文字との差が明らかであろう。 そこで,「偏旁・冠脚」というグループ単位の処理には目をつぶり,ストロークレベルで,できるだけアキを均等にとっていく努力を払うことになる。楷書→宋版→明朝体の変遷と明朝体の特徴の生成については,この方向から分析してみるのが正しい解釈につながると考えている。明朝体のルーツを欧陽詢や顔真卿に直接結びつけるのは誤った観念論でしかない。 もちろん,そうした中で発達していく起筆・収筆などの様式化も重要な視点ではあり,これは生産技術的要因を考えるべきであるとも思っている。

書価について

生産技術的要因と述べたが,要するに宋代から元,そして明に至って書物の需要が急速に増大したのであるが,その需要に応えるためには短期間に多くの版を生産する必要があった。そこで,最初のころはひとりの彫師が刻していたものを分業で処理するにいたり,それに応じて様式化が進んだのである。
この話は別途取り上げることとし,最後に「本の値段」について少し触れておきたい。いったい,版木で印刷していたころの本の値段はどのぐらいだったのであろうか。明代の坊刻本でさえも,奥付に価格を表示するなどということはほとんど行われなかったらしく,価格を知ることは簡単ではないのである。そもそも当時は,書物を金銭で取引するなどというのは書物に対する冒涜以外の何物でもないといった精神風土もあったらしい。
昨年の秋(2006.11)に平凡社から井上進著『書林の眺望』という本が出版されたが,そのなかに明代の新刊本書価について触れられていた。「明末における新刊本売価」という表(127ページ)が載っているが,おそらくこれを見ただけでは分からないかもしれない。同じ万暦年間でも1銭から3両までばらついているし,ページ数によって大きく異なるのも当然である。「百葉単価」も載っているのだが,これも万暦年間だけでも2分3厘から2銭2分までのバラツキがある。
そこで同書からこの内容の補説の一部を引用しておくことにする。

「明末」ではなく万暦中の一般坊本書価は,毎百葉五分から八分くらいが通例であったが,僧侶によって運営される南京僧録司という官庁より,ほぼ実費で頒布されていた『金陵梵刹志』になると二分三厘,つまりごくおおざっぱな推定をすれば,坊本は原価の二,三倍ほどで売り出されていたと考えられる。もとより万暦中でも,より高価な本はいくらもあって,たとえば松本市図蔵本『合刻管子韓非子』の場合は,「毎部定価白銀壱両」で毎百葉一銭一分となるのだが,これは本文の質もよければ版刻も比較的よく,またこの一本は白棉紙精印でもあって,見るからにそこらの坊本とは違っている。
それとこの本は堂々たる清議派官僚趙用賢の編で,まずその家刻本であるだろうが,そうした本が「定価」を明示しつつ,しかも印工から見て刊行後ほどなく,ということはなお万暦十年代,趙氏在世中かと思われる時期に出售されていたというのは,なかなかに興味深い事実であるだろう。またこれだけの本が毎百葉一銭一分というのは,廉価とまでは言わぬにせよ,むやみに高い値段では決してなく,むしろ経済合理性のある価格に設定されている,と考えられそうである。
(中略)
こうした手の込んだ本の書価が,一般のものに比して高くなるのは当然で,とりわけ印譜,法帖,図録の類になると,毎百葉四,五銭,はては一両以上などという,驚くべき値段になりもする。このような価格にどれほどの合理性があるのか,それはコスト,発行部数,実売部数が分からぬ以上,何とも言いにくいことではあるのだが,少なくともそれがまったく恣意的に決められるのではなく,需給などを勘案したうえで,ある相場の範囲内で定められる,というのは間違いあるまい。

とは言え,毎百葉二分三厘とか一銭一分といわれても当時の貨幣価値が分からなければ比較できない。同書によれば,万暦の米価は一石あたり五,六銭であったという。いまの米価は一石あたりに換算すると3万7,8千円程度(生産者価格)であろうが,あまり比較にならないかもしれない。明治期の本と比較してみると,たとえば二葉亭四迷『浮雲』が明治20年刊で上巻(166ページ)55銭,下巻(150ページ)50銭であるが,この年の一石あたり米価は3円65銭であった。またその前年に刊行された末松鉄腸『雪中梅』(日本で最初の政治小説)は上巻(136ページ)60銭,下巻(184ページ)60銭で,この年の一石あたり米価は約3円88銭であった。書籍の価格は今の感覚からすればかなり高いといえる。たぶん米価との比較で言えば,万暦のころの書籍はその2倍程度,つまり米一石と等価に近い価格だったようである。

posted by gen : 2007年01月10日 23:03

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