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2007年01月30日 …【明朝体の様式】

楷書と明朝体(2)

楷書は四次元の世界を二次元で表現する

明朝体は楷書を,そのルーツとする。それにもかかわらず文字を構成するエレメントについて必ずしも一対一に対応させることはできないことを「巾」の例で示した。しかし両書の違いはこれに留まるものではない。他の例については,別途あらためて紹介していきたい。
ここでは,もう少し本質的な視点で両書を比較しておくことにする。
楷書の「楷」は模範になる正しい法(のり)のこととされており,したがって楷書という書体は自ずから「正しい模範になる書」という意味を備えていることになる。一点一画をも疎かにしないという様式なのである。顔元孫が『干禄字書』を著したころには楷書の様式はしっかり定まっている。
しかし楷書は膠着化した書ではない。書の本質として変化を好む。一点一画をも疎かにしないという様式と変化を志向することとは矛盾しているようにみえるが,それを調和させることができるのが書芸術の真髄なのかもしれない。
楷書の変化とは何か。文字やその配置によって,大小,長短,太細,濃淡,強弱等々,あらゆる手を尽くして(?)単純さから逃れようとする。すなわち,まず紙面への配置量による大小・長短,墨量による濃淡,筆の圧力による太細・強弱,筆を動かす速度による太細などの表現の多様性を希求するのである。これはすなわち,平面上での配置・広がり,筆の垂直方向の力配分,筆を動かす速度成分という空間三次元+時間一次元の四次元の世界をたった一本の筆で表現しようとする挑戦でもある。これが書の世界というものである。
楷書が形状的にも変化を好み正方を嫌うのに対して,明朝体は同じ大きさの正方の世界に閉じこもり,かつどんな文字と隣接しても破綻をきたさないように文字ごとの変化を極小にしようとする。濃淡を避け,できるだけ均一なグレースケールが実現できるように個々のエレメントの太さやエレメント間のアキ(カウンター)が調整される。誤解を与えることを恐れずに言えば,明朝体と楷書とは別の道を歩んでいる書体のようでもあるのである。
単純な観念論で「明朝体は楷書を様式化した書体」などとして片付けることは無理なことがわかるであろう。

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2007年01月28日 …【明朝体の様式】

楷書と明朝体(1)

明朝体は楷書を様式化したものか?

明朝体様式について考える。
宋版・元版から美華書館の金属活字による近代明朝体に至るまでは一本道ではない。この過程を分析することは重要であるが,これについては改めて別途行うこととし,現代の明朝体字形を通して「明朝体様式」とは何かを見ていくことにする。今回はこの第一回として,明朝体様式について考えることの意味を問うことにしたい。
明朝体は楷書を様式化した書体と言われる。しかし「様式化とは何か」が不問に付されたままの観念論に堕している傾向にはないのか。まず,こんなところから話を進めたい。
まず簡単に結論的な言い方をすれば,明朝体と(筆写の)楷書は一対一の対応はない。

明朝体と楷書体のエレメント.JPG
たとえば右図は明朝体と楷書体(印刷書体)のエレメントの例である。これは書体デザインを特徴付けるものであるが,一対一に対応しているように見える。しかしそれは印刷書体としてのエレメントを示しているからであって,筆書の楷書と比較すれば実際には一対多なのである。したがって明朝体は楷書字形の構造的特徴のすべてを表現し得ない。エレメントの種類は,ここに掲げた程度の種類には留まらないから,もちろんこれだけで判断するわけにはいかない。そこで実例で解説することにしよう。
楷書と明朝体の「巾」.jpg
左図の左は楷書,右は明朝体の「巾」という文字であるが,まず楷書の筆法を見ておく。ここには3本の縦線がある。その収筆に着目してほしい。左の縦線は筆をしっかり止めており,右の縦線は左にはねているのに対して,中央の縦画収筆は下に引きながらゆっくり抜いていることがわかる。これは運筆を考えれば十分に理解できる。とくに文字の最終画が縦画の場合,次の文字をスムーズに運筆するために,しっかりとめてしまうということをしないのが普通であろう。
つぎに明朝体をみると,左と中央の縦線収筆形状が同じであることがわかる。これが意味することは明白である。明朝体では縦画を「止めて収める」場合と「ゆっくり抜く」場合を字形要素上で区別しないのである。
伝空海「請来目録」一部.JPG
もう少し楷書の筆法をみておこう。つぎに示すのは空海筆と伝えられる『請来目録』の一部であるが,「年」,「十」の縦画収筆と「不」の収筆では,その処理が異なることがわかる。「年」,「十」においては縦画が最終画になり,収めずに筆を抜いているが,「不」の場合は縦画を書いた後に最終画の「点」を起筆することになるから,しっかり止めるだけでなく,虚画として筆が上に向かうために「止めた後に筆を上に引き気味にして離す」ことになるのである。
楷書は筆の動きを忠実にトレースし得るのに対して,明朝体として確立された様式では正しくトレースすることはできない。それは楷書の持つ複数の種類の表現をひとつの形状表現にまとめてしまっているからなのである。こうした点を踏まえずに明朝体の字形を論ずることは無意味である。

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2007年01月10日 …【社会現象としての文字】

(8)宋版について

宋版の誕生

石碑から拓本を採る技術は古くから行われていた。唐末には政治も不安定さを増し,外面的な取り繕いを目的として石経を彫ることが計画されたが,正しく内容を伝えるだけならば,石に彫るより木に彫るほうが効率はよい。当時にはすでに木版印刷術が知られていたから,版木を彫って紙に印刷すれば石経で世に伝えるよりもずっと簡単に済むと考えたのである。こうして木版印刷が広がっていくことになる。
当時,もっとも物資が豊かであった四川(蜀)が印刷の中心地であったという。ここを征服した宋の太祖は,ここで一切経を印刷することを命じる。この地の品質はもっとも優れていたようであるが,北宋末期には文化的な中心であった杭州の印刷に蜀本を凌ぐ質の高い本が多くなったという。
11世紀の宋代には,俗に「宋版」と呼ばれる木版印刷が多く出回るようになった。中央官庁からは多くの書物が刊行され,これを「官版」または「官本」と呼んでいる。科挙制度の整備と印刷術の成立・進展はほぼ同時並行的に行われたようである。
グーテンベルクの印刷が1字ずつの活字を組み合わせて版をつくるのに対して,宋の木版印刷は刷る紙の大きさの領域全部を木版でつくるというちがいがある。当然,1字ずつの活字を組み合わせるやり方の方が再利用という観点からは進んだ技術といえるが,あらかじめ用意しておく活字の種類が桁ちがいに多い漢字の場合,効率からだけでみれば,版木に直接文章を彫ることは,かならずしも悪い方法とは言えない。その証拠に,漢字の活字が誕生した後も木版は長い間廃れなかったのである。この現象は日本においてもみられているように,漢字の場合には版木による印刷がすぐれていることがわかる。

宋版の文字

ところで宋の木版印刷といっても文字の様式は同じではない。北宋の版では筆写の原稿をもとに彫っているために筆の味わいが残されている。しかし,それにしても楷書から楷書体への変化を意識しておく必要がある。前者は筆書の書体であり,後者は印刷用の書体と定義しておく。
南宋の版は北宋の印刷物の覆刻が主となり,もともと彫刻刀で彫られたものが手本になっていったために筆写の雰囲気は薄れ,「彫り」の特徴が顕著になっていく。この変化の流れが明朝体成立の根源にあることを見逃してはならない。つまり「複製の複製」が繰り返されることにより,筆の味が次第に希薄になるとともに彫刻刀の鋭い切れ味が濃厚になっていくのである。
しかし,北宋版を含めた木版印刷用の書体と筆書の書体とは,結構の面で本質的な違いがあることを知っておく必要がある。

「周礼」部分.JPG
左図は四川刊本『周礼』(孝宗期1163-1189)の影印である。行を区切る罫があり,その間の中心に文字が来るように,かつ罫にかからないようにしながらほぼ等ピッチで刻されている。 今述べた特徴は写経に通じるが,一般的な写経と異なるのは罫間に対する文字の大きさである。刊本の場合は文字を大きくしており,その結果,筆書としての楷書の書法からは大きく逸脱せざるを得ないことになる。 楷書では,偏旁は離し冠脚は詰めるのが原則であるが,等間隔で引かれた罫線間にできるだけ大きく文字を刻するということにすると,「偏旁を離す」ことにこだわってはいられなくなる。つまり空間の処理の仕方がまったく異なってしまうのである。
欧陽詢「使」.JPG
右の「使」は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」から採ったものであるが,「周礼」の文字との差が明らかであろう。 そこで,「偏旁・冠脚」というグループ単位の処理には目をつぶり,ストロークレベルで,できるだけアキを均等にとっていく努力を払うことになる。楷書→宋版→明朝体の変遷と明朝体の特徴の生成については,この方向から分析してみるのが正しい解釈につながると考えている。明朝体のルーツを欧陽詢や顔真卿に直接結びつけるのは誤った観念論でしかない。 もちろん,そうした中で発達していく起筆・収筆などの様式化も重要な視点ではあり,これは生産技術的要因を考えるべきであるとも思っている。

書価について

生産技術的要因と述べたが,要するに宋代から元,そして明に至って書物の需要が急速に増大したのであるが,その需要に応えるためには短期間に多くの版を生産する必要があった。そこで,最初のころはひとりの彫師が刻していたものを分業で処理するにいたり,それに応じて様式化が進んだのである。
この話は別途取り上げることとし,最後に「本の値段」について少し触れておきたい。いったい,版木で印刷していたころの本の値段はどのぐらいだったのであろうか。明代の坊刻本でさえも,奥付に価格を表示するなどということはほとんど行われなかったらしく,価格を知ることは簡単ではないのである。そもそも当時は,書物を金銭で取引するなどというのは書物に対する冒涜以外の何物でもないといった精神風土もあったらしい。
昨年の秋(2006.11)に平凡社から井上進著『書林の眺望』という本が出版されたが,そのなかに明代の新刊本書価について触れられていた。「明末における新刊本売価」という表(127ページ)が載っているが,おそらくこれを見ただけでは分からないかもしれない。同じ万暦年間でも1銭から3両までばらついているし,ページ数によって大きく異なるのも当然である。「百葉単価」も載っているのだが,これも万暦年間だけでも2分3厘から2銭2分までのバラツキがある。
そこで同書からこの内容の補説の一部を引用しておくことにする。

「明末」ではなく万暦中の一般坊本書価は,毎百葉五分から八分くらいが通例であったが,僧侶によって運営される南京僧録司という官庁より,ほぼ実費で頒布されていた『金陵梵刹志』になると二分三厘,つまりごくおおざっぱな推定をすれば,坊本は原価の二,三倍ほどで売り出されていたと考えられる。もとより万暦中でも,より高価な本はいくらもあって,たとえば松本市図蔵本『合刻管子韓非子』の場合は,「毎部定価白銀壱両」で毎百葉一銭一分となるのだが,これは本文の質もよければ版刻も比較的よく,またこの一本は白棉紙精印でもあって,見るからにそこらの坊本とは違っている。
それとこの本は堂々たる清議派官僚趙用賢の編で,まずその家刻本であるだろうが,そうした本が「定価」を明示しつつ,しかも印工から見て刊行後ほどなく,ということはなお万暦十年代,趙氏在世中かと思われる時期に出售されていたというのは,なかなかに興味深い事実であるだろう。またこれだけの本が毎百葉一銭一分というのは,廉価とまでは言わぬにせよ,むやみに高い値段では決してなく,むしろ経済合理性のある価格に設定されている,と考えられそうである。
(中略)
こうした手の込んだ本の書価が,一般のものに比して高くなるのは当然で,とりわけ印譜,法帖,図録の類になると,毎百葉四,五銭,はては一両以上などという,驚くべき値段になりもする。このような価格にどれほどの合理性があるのか,それはコスト,発行部数,実売部数が分からぬ以上,何とも言いにくいことではあるのだが,少なくともそれがまったく恣意的に決められるのではなく,需給などを勘案したうえで,ある相場の範囲内で定められる,というのは間違いあるまい。

とは言え,毎百葉二分三厘とか一銭一分といわれても当時の貨幣価値が分からなければ比較できない。同書によれば,万暦の米価は一石あたり五,六銭であったという。いまの米価は一石あたりに換算すると3万7,8千円程度(生産者価格)であろうが,あまり比較にならないかもしれない。明治期の本と比較してみると,たとえば二葉亭四迷『浮雲』が明治20年刊で上巻(166ページ)55銭,下巻(150ページ)50銭であるが,この年の一石あたり米価は3円65銭であった。またその前年に刊行された末松鉄腸『雪中梅』(日本で最初の政治小説)は上巻(136ページ)60銭,下巻(184ページ)60銭で,この年の一石あたり米価は約3円88銭であった。書籍の価格は今の感覚からすればかなり高いといえる。たぶん米価との比較で言えば,万暦のころの書籍はその2倍程度,つまり米一石と等価に近い価格だったようである。

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