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2006年12月10日 …【社会現象としての文字】

社会現象としての文字(6)

文字字形と筆記用具

文字の字形が筆記用具の種類に依存することは誰でもわかる。歴史的にもよく知られていることである。
シュメール人が粘土板に記した記号には,いくつかの形状の種類があるが,それぞれに適したヘラや,その他の棒状の先端などが用いられたであろう。楔形文字は粘土にヘラの先を押し当てて書いた。そこで「楔形」のエレメントとなったのである。しかしその後,金属板に刻されることになると楔エレメントの形状は微妙に異なったものになる。鏨のようなものが準備されたはずで,それによって大きさや形状の統一化が図られもしたと思われるものもある。
初期シュメール人の粘土板.jpgsp.JPGダレイオス黄金飾り板の一部.jpg
上図左は初期シュメール人の粘土板,右はダレイオス黄金飾り板の一部である(いずれもアンドルー・ロビンソン著 片山陽子訳『文字の期限と歴史』創元社 2006 より転載)。
南インド諸語,たとえばクメール文字やタイ文字,ビルマ文字などは,古くはバイラン(椰子の一種の葉)にスタイラスで刻し,その上から墨を入れて書いたが,ピリオドのような「点」は,単に穴が開いてしまうだけになるためしっかりした形状の記号が作られた。「リーフにスタイラス」という条件からは,当然,等線の文字となることも必定である。
バイランに書かれたクメール文字.JPGsp.JPGクメール文字.JPG
上図左はプノンペンのフランス極東学院で保存されているクメール文字が書かれたバイラン(筆者撮影),右は現在のクメール組版で最後にあるのがピリオドである。
また,マヤ文字のあの複雑な意匠は,筆記用のペンやインクが発達していたからこそ可能であった。
すでに論じたように,漢字も例外ではない。亀甲や獣骨にスタイラスで刻した文字は,そのまま周の文字として使用されたが,青銅器に「彫る」場合,厳密に言えばその鋳型すなわち柔らかな粘土に彫るわけであるから,甲骨文字の先鋭的形状表現は,なだらかな曲線表現に変わっていくのである。

石鼓文.JPG
しかし青銅器に鋳込まれる文字は,あくまでも記念碑文字としてであった。通常の用途に供される文字は別の書き方がされたと思わなければならない。それが何なのかの知見は持たないが,すでに着色のための染料は持っていたから,それを用いて木やその他の材料に「書いた」のであろう。ただし,当時の文字使用は,祭事や皇帝の記録などを除けば一般人が普通に使うものではなかったから,書かれたとしても,そう多くなかったはずである。
いずれにしても,こうして数百年の間に使用する地域も広まり,時代の推移とともに字形変化(バリアント)が生じていくのも宿命であった。おそらく,小篆体のベースになった大篆も木や竹に書いていたであろう文字のひとつである(大篆という名称は,それに続く小篆から逆につくられたらしい)。残念ながら大篆で書かれたものはあまり残っていないようであるし,それもほとんど石刻のみで,当時の一般的使用実態を垣間見ることは難しい。しかしいま残されている石鼓文の文字を見るかぎり,金文の味が比較的よく残されていると言える(上図は安国第三本宋拓の一部である)。

漢字における筆記用具と書体との関係

小篆体は等線である。藤枝晃によれば,その当時の筆は「ヒラ筆」であり,そのために等線の書になっているという。そしてその後,鹿豪の筆が発明されて隷書の筆法を可能にし,さらに兎豪竹管ができて楷書の出現に結びつくという。(『文字の文化史』)。つまり,筆の進化と篆書→隷書→楷書という流れが密接に関係しているというわけである。
隷書が使用されていた時代は,ほとんど木簡に書いた。そしてその木目に打ち克って力強い波磔をしっかり書くためには強く固い筆を必要とした。しかし,その後に紙が発明される。紙と兎豪竹管によって,はじめて楷書のデリケートな表現ができるようになったのである。デリケートな表現はまた遅速も自由にできることをも意味する。こうして楷書とはいっても,誤解を恐れずに言えば,ある意味で自由奔放な運筆バリエーションを生んでいったのである。
楷書は三世紀の半ばには出現していることが確認されているが,書聖と言われる王羲之が現在のスタイルを創出し,唐の能書家たちが完成させたという。欧陽詢,顔真卿,褚遂良などである。

張猛龍碑(一部).JPG
しかし一方,こうした書を生み出した南朝に対して,北朝ではまったく別の印象を持つ楷書がつくられた。北魏の書である(左図は北魏の張猛龍碑の一部。)。
この差を「北碑南帖」,すなわち南朝の書は紙と兎豪竹管による帖によって実現され,北朝の書は石碑に刻される文字として形づくられたといわれるが,藤枝晃によれば,「その相違の根本は実に材料--用筆の材質の相違に由来している」という。しかし榊莫山がつぎのように指摘しているのには説得力がある(『臨書のための書道名作撰集4 楷書篇Ⅱ』創元社 1966)。
下書きの毛筆の文字を,石工がノミで掘り起こす作業を通して,毛筆の性ともいえる柔の世界は抹殺され,剛の世界をえがきだしたといえよう。岩面に刻まれた文字は,切り立つようにして鋭く置かれてあるのも,じつは洞窟の空間を飾るにふさわしいフォームであったのだろう。

南朝の楷書は隋に至って「正式の書」として確立され,宋代の木版のベースになっていくのであるが,もちろん筆で書くのと彫刻刀で木に彫るのとでは,当然同一字形ではいられなかった。そして,その変化が明朝体を生むことになる。
しかし,明朝体の字形的特長を生み出す要素は,そう簡単なものではない。
まず北魏の楷書にもっと注目する必要がある。「張猛龍碑」が注目されはじめたのは19世紀に入ってからとされ,陽守敬(1839-1915)が「書法瀟々として枯淡,奇正相生じ,六代の多角唐人に出ずるゆえんのもの,ここを以ってなり,或は其の不佳なるをいうは真に俗眼也」と賞賛した(上條信山著『書道技法講座〔16〕楷書 張猛龍碑--北魏』二玄社 1972)のは,碑が建立されてから実に1300年もの後のことである。したがって,宋代においては北魏の碑はまだほとんど省みられなかったという。しかし,誰も指摘していないことではあるが,私の想像では北魏の書のバランス感覚が明朝体に影響を与えなかったとは言えないと思っている。この点については,あらためて論じる期会もあろう。

それはさておき,宋代に至って書画は旧来の習癖から開放され,革新的な表現が用いられるようになる。明朝体の前身である「宋体」は,こうした環境を念頭において考えるべきではないか。
次回は,明朝体の話に入る前の最後として,宋代の書について少し見ておくことにしたい。


posted by gen : 2006年12月10日 14:04

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