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2006年12月03日
…【社会現象としての文字】
社会現象としての文字(5)
三井記念美術館で唐代の写経を見る
三井記念美術館で「敦煌経と中国仏教美術」特別展が開催されている(12月17日まで)。過日,この展示会に行って3時間ほど写経だけを見てきた。7世紀から8世紀初頭までの100年に満たない間に料紙に丁寧に書写された文字を具に見ていくと,非常に面白く興味が尽きなかった。こういうときには「やはり本物に接しなければわからない」との想いを強くする。
たとえば8世紀に書写されたと言われる『魔訶般若波羅密経巻第十九』では,「樹」の5~7画目が「キ」になっており,あまり見ない字形である。漢和辞典によって変わるが,ここは「土」か「士」になるところである。ちなみに常用漢字表例示字形は「士」である。
「當」の口一画目が田一画目を兼ねている(!)文字字形が使われている写経もかなりあった。「佛」の旁の「弓」が「コ+フ」のような字形のものも非常に多い。というより,展示されているもののほとんどが,この字形である(下図)。小篆体ではこの文字の「弓」部は1本の線で構成されており,上下は分離していないから,これは八分から行・楷書への変化の過程で,運筆上の理由から発生した字形であろう。
供養の「供」の旁が「四画の草冠+一+ハ」になっている文字もある。「受」の「又」が「丈」の運筆のものも多い。まさに多種多様,異字形の宝庫にさえ見え,いつまででも見ていたい想いであった。
こうした字形の違いと書写された年代区分との相関はあまりない。並存しているのである。いつも指摘することであるが,とくに文字字形についてはどの時代にも緩やかな幅があり,それが生きている証でもあると言える。そのひとつの顕著な例を,この展示会で見ることができる。即天文字である。
敦煌経にみる則天文字
この展示会では則天文字が使われている経典が2種類出展されている。ひとつは『大般涅槃経巻第三十七』,そしてもうひとつは『大乗密厳経巻下』である(下図は『大乗密厳経巻下』の当該部の一部)。
武則天の治世は690年から705年までであるが,彼女が制定して「強引に」使用させた文字は19種あったという。これを則天文字という。
則天武后(武則天)が皇位に就くとさまざまな改革を行った。その中には善政と言ってもよいことがらも少なくなかったようであるが,自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し,仏教を振興したのはよいとして,自分の来歴を神格化して記録させ,さらに上述のようにたかだか19字とは言え,新しい字体を創作してしまったのである。
しかし権力を得た者が自分の足跡を後代にまで喧伝するために記録を作らせることは,古今東西ほとんど普遍的と言ってよいほど誰もが行っている。中国に限らず,功績を誇示した碑文や記録を残さなかった皇帝はいないのではないか。
そして,こうした記録はすべて文字によるものであるから,文字改革は自らの権力誇示のもっとも象徴的な行為と言ってもよい。想像に過ぎないが,即天文字もそうして制定されたものではないかと考える。則天武后の名は部照であるが,この「照」に対しても即天文字を制定しており,これは「明」冠に「空」脚という文字になっている。明るい空は太陽に照らされているからであるが,この「太陽」に則天武后は自分を重ねているであろうことは十分に想像できる。
則天武后亡き後,ある一定時期までは即天文字も使用されていたようであるが,しかしまもなくこれらの文字は完全に忘れ去られてしまったのである。まさにあだ花であった。さすがに15年もの間,使用を義務付けられれば,その文字が染付いてしまう世代もあったはずで,多少の「余韻」が生じるのはむしろ自然である。
現在確認されている則天文字は17種類,そして現代の私たちが今の時代に見ることができるのは水戸光圀の「圀」のみである(詳細に調べれば,その他にも人名等で使用される外字として存在するのかもしれない)。光圀という名前の文字は,たぶん即天文字だからという理由で選んだのではあるまい。「國」の異体字のひとつとして選定されたのであろう。
※ 上記の図は三井記念美術館刊『精選敦厚写経』収載の写真版から,その一部を切り出して転載させていただいた。
posted by gen : 2006年12月03日 16:40