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2006年09月10日 …【義務教育における漢字学習の問題】

(2)教科書に用いられている明朝体の実態

義務教育における漢字教育の中で,書体に関する理解を十分にさせる仕組みができているとはいえない可能性を指摘したが,それには多少の理由がある。私は「無菌室的」と表現しているのであるが,小学校で学習した教科書体による書体のイメージを中学校でもずっと引きずり,「書く書体」と「読む書体」の違いを満足に教える努力を自ら放棄しているような状況を感じているからである。
次の図を見ていただきたい。

中学校教科書の明朝体1.JPG
これは中学校の「国語」教科書のひとつ(平成11年度版「中学国語3」光村図書)から一部を抜き出したものであり,明朝体で組まれている。ここで用いられている明朝体の字形が,一部の文字において標準的な明朝体字形とは異なっていることに気づかれるはずである。左の行から「衣」,「食」,「振」,「続」,「長」をみていただきたい。
明朝体には独特の様式が存在し,たとえば「衣」は全体で六画なのであるが,四画目は見かけ上,二つのストロークになっているようにデザインする。同様に見かけ上の画数が多くなるような漢字はたくさんある。前記の文字はすべて見かけ画数が実際の画数より多い文字である。

標準的な明朝体字形例.JPG

ところが教科書の明朝体では「見かけ画数」の文字に手が加えられ,正しい画数を表現していることがわかるであろう。
もうひとつ,次図に教科書から例を引用しておく。

中学校教科書の明朝体2.jpg
これは『奥の細道』の一部を紹介したものであるが,この「明朝体」も標準的な字形とは異なる文字がいくつかある(※ この表示のままでは判読しにくいのですが,ブラウザの画面拡大[IEではページ拡大の機能,FireFoxでは「画像表示」]で細部を確認できます。次図も同様。)。具体的には「山」,「館」,「流」,「衣」であるが,「山」はとくに明朝体としては違和感があるといえるであろう。すべて「見かけ二画の排除」を意図してデザインされているのである。 しかし一行目の「耀」の偏にある「光」は最終画を見掛け二画につくっている。一見統一されていないように見えるのであるが,この文字は常用漢字ではなく,「見かけ二画排除対象文字」ではない,というのがその理由であろうと思われる(つまり,義務教育で覚えることを要求されていない漢字という意味で)。しかし,それでは「見かけ二画排除」の意味がまったくなくなるはずである。とはいえ,もちろん「見かけ二画排除」そのものが教育的にみてよい影響を与えないというのが私の持論であるから,意味の有無を論ずるのは,それこそ無意味なことであるが…

明朝体の様式を無視してまで変える字形の意味とは何か

もともと教科書体は書写の文字として教えることを前提としている。つまり「書き文字」なのである。それに対して明朝体は読むための文字であり,これらふたつの書体の位置付けはまったく異なる。したがって,学校教育では,その違いを正確に教えることも必須でなければならない。にもかかわらず,明朝体字形に手を加え,教科書体として教えた形(骨格)に近づけようとする。これは真の漢字教育上からは,無駄というより悪に近い余計なおせっかいであって,こういうことをするから漢字の字形理解がなかなかできないことになるのである。
しかし,なぜこんなことをするのであろうか。それは小学校の漢字教育が,一点一画について「学習指導要領」の漢字配当表に寸分違わずに教え,それから幾分かでも逸脱(たとえば,ちよっと出てしまうとか,少し離れてしまうといった微小な差異)に対して厳しく評価し,バツをつけてしまうという「教え方」に根源があるように思う。
たとえば漢字配当表に示される「女」の字形は,二画目の起筆が三画目の横画よりわずかに上に出ている。そして,そのように書くことを教える。しかし一方,常用漢字表の「女」をはじめ,明朝体字形としては「女」の二画目は上に出していない。ところが教科書の明朝体における「女」は,二画目の起筆が少し上に出ているのである。つまり明朝体という,教科書体(書写用の楷書の一種)とはまったくカテゴリーの異なる書体の字形を,教科書体に必死に合わせようとしているわけである。それは,生徒が少し二画目を上に出してしまうとバツをつけるのに,教科書ではなぜ上に出ている形が許されるのか,という生徒の疑問に真正面から答えないで済む仕組みをわざわざ用意した,ということであろうと思うのである。
つぎに示すのは,フォントメーカーから出ている「学参フォント」として販売されている明朝体とゴシック体の例である(ここではモトヤの書体を同社のWegから引用して例示した)。

gaku.gif

「女」の二画目はみごとに上に突き出している。この種の「学参明朝」は他のフォントメーカーからも出されているが,このような書体をつくったのは,もちろん需要があったからである。したがって「つくった方が悪い」ということにはならないが,こうした「明朝体」がかえって漢字の理解を妨げ,社会に出てからの(漢字についての)常識を持てない一つの大きな原因をつくっていることもたしかだと思う。私はこれを称して「無菌室的」といっている。
別言すれば「教育的配慮」ということであるが,このような「特殊な明朝体」を何の説明もなく(というより説明抜きで使う前提で,このような特殊構造にしているというべきである)教育現場で使用しているのである。しかし家に帰れば新聞やテレビのテロップなど,それとは異なる明朝体が氾濫している。一般書籍には,教科書に用いられる「明朝体」などは使われていない。この落差を生徒たちはどう受け止めるのであろうか。また教育に携わる者はこれをどのように教えるのであろうか。残念ながらほとんど不問に付されているのが実態であろう。

漢字字形のユレについて

ついでに,書写の文字字形で,どの程度のユレなら認められるのかということについて,その考え方の本質に少し触れておきたい。
また「女」を例に出す。「二画目の起筆を三画目の横画よりわずかに上に出す」ということは書写の場合に簡単であろうか。「わずかに」をどの程度に解釈するかにもよるが,実際に書いていただければわかるように,なかなか難しい。実は難しいか易しいかには,ある条件が関係している。起筆位置は制御しやすいので,「ここ」と決めれば,その位置にペンを置くことは可能である。収筆部についても,それが「トメ」であれば制御できる。しかし,たとえば「ハライ」や「ハネ」の先端(収筆)は勢いがある(速度を伴う)から,なかなか制御しにくい。それは運筆途中についても同様である。
そこで「女」について再度みてみよう。二画目の起筆を問題にしているのであるから,制御は楽だと思うかもしれない。しかし実際には三画目のストロークの途中との関係を問題にしているのである。つまり三画目を運筆している最中に,二画目の起筆のわずか下を通す,などということに意を用いることが必要となるが,なかなかぴったりした位置には収まってくれないということにもなる。
しかし先ほども述べたように,純粋な起筆位置だけが問題になる部分,またはトメ要素の収筆部分については厳格に規定しても,そのとおりに運筆することが可能である。たとえば「クニガマエ」(口でもよい)を書いてみよう。一画目の起筆は,まさに自分が「ここ」と決めた位置に置くことができる。収筆もトメであるから同様。そして二画目の起筆は一画目の起筆部にあわせるので,これも正確な位置に置くことは簡単である。そして転折後の縦画の収筆もトメであるから,左側の一画目の収筆位置をにらみながら最適値に置けるであろう。そして最後の三画目も,起筆・収筆とも一,二画目との関係を意識して正確に運筆できる。
それでは逆のケースを考えてみる。「非」を書いてみることにしよう。問題は四画目の右ハネ上げの先端をどうするか,ということである。常用漢字表の例示字形の「非」は先端を右に出す形であるが,漢字配当表の教科書体では「出さない」形である。この四画目はハネ上げなので,当然勢いよく運筆することになる。その場合,ぴったり一画目の線上で止めるのは至難の業ということになる。こういうケースでは,書写のユレがある程度あるのはやむを得ないと考え,字形を決定する必須の骨格要素とはしないというのが正しい考え方であるように思う。
こういうメリハリをつけず,字体が違うとか字形がおかしいというのは間違いのように思えてならない。

posted by gen : 2006年09月10日 13:17

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